カテゴリ:コンサート( 44 )

 私がもしヴァイオリンを弾けるのではあれば、真っ先に弾きたいのがシベリウスのヴァイオリン協奏曲だ。その曲からは、北欧フィンランドの豊かな自然から溢れ出る、澄み切った大気が浮かび上がり、素晴らしい彼の国の光景を想い起さずにはいられない。このヴァイオリン協奏曲はそれこそ昔…、10代後半頃に聴いて感動し、それからシベリウスの交響曲や《トゥオネラの白鳥》《悲しきワルツ》《フィンランディア》など著名な曲を選んで聴いていた記憶がある。しかし、実演ではシベリウスの曲を聴いた記憶がない(忘れてしまったのかも)。社会人になりたての20代初めの頃は、それこそオーケストラの定期会員になって曲を選ばず聴きに行ったものだが、それも昔のことである。

 今回の《クレルヴォ交響曲》は、シベリウスの若かりし頃の作品とのことで興味を惹かれ(聴いたことがないものだと食指が動く)、そして都響の演奏ということで楽しみにしていた。
 指揮のリントゥも接するのは初めて。都響はここ数年、年に何回かは聴いているが、前半は荒いというかガサついた響きで、あれ、いつもこんな演奏だったろうか、と自分の気持ちが乗らず(曲に気持ちが揺り動かされると、必ず身体的な反応が出てくる、つまり自分が曲に巻き込まれていく感覚を味わえるのだが、全く反応なし)。曲の構成もシベリウスの個性がはっきりとは見えない感じで、どこかで聴いたことのあるような調べが流れていくなぁという印象。
 
 これが、第三楽章の始めに声楽が入ってきたとたん、打って変わって躍動感みなぎる、生き生きとした調べが会場を満たし、オーケストラも美しい滑らかさと荘厳さで、緊迫感のあるドラマを形作っていく。合唱は、粒の揃ったくっきりとした響き(フィンランド語!)で物語を伝え、素晴らしい歌声。気迫の籠ったエネルギッシュな指揮にオーケストラも渾身の演奏で、後半は全く見事というほかない。
 アンコールの《フィンランディア》もお国ものということで、感動を覚えないわけがない。ただ、これは私の趣味の問題だと思うが、あまり大仰なのは苦手。大仰というのは、オーケストラ自体の規模が演奏主体として大きいので、自ずと会場も大きく、観客も多くなる。
 オペラを除いては、できるだけ小さな会場の親密な空間で、音楽(楽器や奏者、観客との一体感を含めて)を味わうのが好きなので、私にとっては、やはり大きすぎると改めて感じた一時でもあった。

 音楽と最も一体感を感じるのは、やはり自分でピアノを奏でている時なのかもしれない、バッハを弾く時の、あの心震えるような愉悦を超えることがあるのだろうか、と。

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 C.P.Eバッハはここ最近の大のお気に入り。そして、今回は滅多に聴くことのできない彼のオラトリオ《荒野のイスラエル人》が演奏されるとのことで非常に楽しみにしていた。演奏はオッターヴィオ・ダントーネ指揮、サント・スピリト・アカデミア・オーケストラ&合唱団(トリノにて1985年に設立。スピリト・サント=聖霊教会には行かなかったが、ご当地もので嬉しい)、そしてソリスト陣。
 《荒野のイスラエル人》はテレマンの後任を目指して渡ったハンブルクで初演され、当時でも大変評価の高かった作品。C.P.Eバッハの作品は、アヴァンギャルドで大胆な試みが刺激的だが、ここではオラトリオということで、ドラマチックでありながらも前衛さは控え、抑制を効かせて古典派的、そしてベルリン時代を彷彿とさせるエレガントな美しさが際立っている。さすがC.P.Eバッハ、期待を裏切らぬ見事な出来栄えの作品である。オラトリオだが、オペラティック、というのは、アリア(特にソプラノ2声)がバロック的で繰り返しの部分はお約束の装飾&即興性という華やかさであり、宗教的というにはあまりにも華麗。ソリストには高度な技巧が求められ、音楽自体にエンターテインメント性が高い。
 ソプラノのデュエット・アリアの美しさといったら、内容はイスラエルの民に救いを差し伸べぬ神への嘆きを謳いあげているのだが、モーツァルトに匹敵する天国的な調べで、地上を離れて天に誘われるがごときである。
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 合唱はイスラエルの民の嘆き、そして救われた歓び、神への感謝を情感豊かに表現、きっちりドラマを牽引し、引き締める。バスに割り当てられているのはモーゼ。登場シーンはシンフォニー付きで、いよいよモーゼ登場と金管を鳴らすこの辺りから、モーゼに神の無情を訴えるイスラエルの民(合唱)の怒りの場面の構成もメリハリがあり、ドラマとしてもよく出来ている。ダントーネもツボを押さえた采配ぶりで納得の表現。テノールはアロン。逆境の中、神を信じろと民を諫めるアリアには、心打たれる説得力がある。
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 会場はほぼ満員。当然歌詞はドイツ語なのだが、プログラムにはしっかりと対訳&解説付きで、本当に素晴らしい。観客で対訳を観ている方はそう多くなかったが(この辺りは日本と同じ)、集中して聴き入っている雰囲気。終了後はスタンディングオベーション。ソリストの歌唱も良くて、大満足。聴きに来て良かった、この曲はまず日本では聴けまい(というかやらないだろう)。
 驚いてしまうのは、このコンサートが無料であるということだ。これほど質の高い、オーケストラ&合唱団、ソリスト、指揮を揃え、しっかりとしたプログラムも配布している。いったいお金はどこから出ているのだろうか、と素朴な疑問が湧き出てくると同時に、日本との根本的な「文化」の享受ということの違いに想いを馳せずにはいられなかった。

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 スペインの若きピアニスト、フアン・ペレス・フロリスタンのリサイタルへ。
 今年のMITO9月音楽祭のテーマは「natura(自然)」。コンサートごとに表題が付けられており、今回は《AL QUADRATO》。抽象的な題、絵画のような四角い空間を表しているのだろうか。
 会場に入ると舞台にはファツィオリのピアノが。どんな音色を聴かせてくれるのだろうかと、期待が高まる。
 プログラムはリスト、ドビュッシー、そして休憩を挟んでムソルグスキーの《展覧会の絵》とヘヴィーな内容(超絶技巧満載)で、まぁこれは大変(ドビュッシーを挟まなければもたないだろうな)と。
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 まずはリスト《巡礼の年 第2年:イタリア》から3曲。《婚礼》はラファエロの絵画をモチーフとしているが、その絵画は、まさにここミラノのブレラ美術館にある。ロマンの薫り溢れる曲と相まって、それを思うと胸が高鳴り、どうにかなってしまいそう。
 フロリスタンは手さばきもエレガントな、柔軟性に富むロマンティックなリストを奏で、またファツィオリがなんとも艶やかでくっきりとした響き。ヒューイットのバッハでのファツィオリとは全く異なる鮮やかな響きに驚く。そして、《物思いに沈む人》(こちらはミケランジェロ)を挟んで、In questo stato son,Donna,per vuiー悩める恋心を謳いあげた《ペトラルカのソネット104番》、まさにイタリアのアモーレ全開といったソネットで、プログラムにもしっかりとソネットが掲載されているのは素晴らしい。
 最前列にいた若いカップルがぴったり肩を寄せ合って聴き入っているのも、いいなぁ、と微笑ましい。こんな親密な空間で、恋人同士リラックスして聴けるクラシックコンサートなんて、最高ではないか(値段を聴いて驚くなかれ、5€。しかもこの演奏レベルを聴けるとは、日本の感覚では信じられない)。
 私の隣席のおばあさまは、熱心なクラシック音楽ファンのようで、休憩時間には来シーズンのスカラ座プログラムを凄い勢いで一枚ずつめくりながら〇×チェック(×は行かない舞台のよう)をしていた…。カーテンコールでは大喝采、満足されたようで良かった。

 そしてドビュッシーの前奏曲集から5曲。《亜麻色の髪の乙女》《オンディーヌ》《西風の見たもの》と、馴染みのある曲が続く。近代的和声のドビュッシーの世界を鋭い響きで表現。休憩後は大曲《展覧会の絵》、これは圧巻だった。ロシアの薫り…、本当にユニークな組曲。ここでのフロリスタンは、リスト&ドビュッシーとは全く異なった手さばきで、どっしりと芯の通った力強い音を立ち上げる。ギャラリーで実際に絵と対峙しているかのごとく、しっかりと各曲のキャラクターを表現。《リモージュの市場》の賑わいのくだけた表現も上手い。クライマックスの《キエフの大門》への盛り上げ方も迫力満点で、大喝采。
 ムソルグスキーは昨年に《死の歌と踊り》で度肝を抜かれたが、オペラ《サランボー》なんて聴いてみたかった。完成したのが《ボリス・ゴドゥノフ》だけとは、残念。
 

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 ミラノ・スカラ座によるヘンデルの前日に、楽しみにしていたイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏会へ。2日続けてミラノでバロック音楽、しかも以前から聴いてみたかった古楽アンサンブルとは、なんという幸せ。
 曲はルネサンスからバロックにまたがった音楽が主体となっていたが、韓国出身の作曲家ユン・イサンによるフルート・ソロ曲(《中国の絵》から《羊飼いの笛》)も入っているという、一捻りあるプログラムはさすがである。
 まずは、嬉しいことにヴェネツィア・バロックの作曲家から。ヴェネツィア音楽、つまりサン・マルコ聖堂関連となると、あの黄金のモザイクの柔らかな光に満ちた空間が浮かび、それだけで気分が高揚…。ダリオ・カステッロの《現代的なソナタ・コンチェルターテ》第1巻より2曲。アントニーニ無しでの演奏だったが、まぁエッジが効いて、丁々発止の火花が飛び散らんがごときの鮮やかな演奏が見事!奏者皆がリズムに乗ってよく動くこと、ここまで身体全体を動かしながら演奏しているアンサンブルは初めて観た。その生き生きとした躍動感に、ただただ「うわぁ、上手いなぁ、素敵だなぁ、いいなぁ」(こんな感想でごめんなさい)と聴き惚れていた。
 そしてヴィンチェンツォ・ルッフォ、ヤーコプ・ヴァン・エイク。ユニークだったのは、カルロ・ファリーナの《Capriccio Stravagante》で、フルートやトランペットなど様々な音の模倣が次から次へと流れていき、中にはil gatto(猫)の鳴き声を模倣した曲もあって、驚くほどモダンな感覚のバロックだった。
 ヴァネツィア系の作曲家としては、他に ビアッジョ・マリーニ、タルクィニオ・メルーラとツボを押さえた流れで、トリはやっぱりヴィヴァルディのフルート・コンチェルトで決まりだ。身をくねらせながら(!)フルート(リコーダー)を奏でる(というか吹きまくるという感じで凄い)アントニーニ、鋭角的な響きのクールな、でも熱いヴィヴァルディで、ここまでエッジが効いている演奏はなかなかないだろうと。
 観客はあっさりした反応の方と、熱狂的な拍手を送る方と分かれていたように感じる。私はもちろん大拍手で興奮気味。是非、アンサンブルごと日本に来ていただき演奏してほしい。
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 ダル・ヴェルメ劇場は1872年に開場した歴史的な劇場である。レオンカヴァッロ《道化師》が初演されたのはここ。スカラ座とはまた異なる風格を感じさせる。内部は近代的な改装がされており、劇場とはいっても馬蹄型のオペラ劇場でななく、コンサート会場といった感。スカラ座からも比較的近いが(10分ぐらい)、夜11時ぐらいになると辺りはさすがに人が歩いていなくて、帰りはちょっとビビってしまい、小走りで宿へ戻った。

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 やっと、ヒューイットのバッハを実際に聴ける。それもオール・バッハプログラム(2日連続!)なんて夢のよう、と高ぶる思いで紀尾井ホールに。
〝The Bach Odyssey —バッハ遍歴”の第一弾は2声のインヴェンションと3声のインヴェンションを軸としたプログラム。ピアノを多少なりとも弾いてきたものにとっては、馴染み深い曲集だ。
 
 この記念すべきバッハ遍歴は《幻想曲ハ短調BWV906》から。嵐の前触れを感じさせるエネルギッシュな曲(半音階が効いていて、カッコいい!)を颯爽と奏でるヒューイットに、初めからノックアウト状態、凄い!
この曲は、C.P.Eバッハがソナタ形式を開発するのに、影響を与えたに違いないとのこと。すっかりこの曲に魅せられてしまい、コンサート後にCDで繰り返し聴いている状態。
そして《イタリア風のアリアと変奏BWV989》を経て、《2声のインヴェンション》《3声のインヴェンション》へ。

 私も2声は全曲、3声は半分程度弾いたが、易しい学習用の曲と認識されがちなこの曲集を、ヒューイットはなんと表現豊かに聴かせてくれたことか。一曲一曲の個性がしっかりと打ち出されており、声部の弾き分けはもちろん、装飾音も美しく、丁寧に吟味を重ねた解釈であることが伝わってくる。
 生き生きとして、曲それぞれが色合いの異なる宝石のような輝き。それはヒューイットと同一化しているファツィオリのピアノの音色でもある。現代のピアノなのに金属的ではなく、まろやかで、フォルテピアノのような響き。
 「たった1ページ弾くためには、どれほどの思索、注意かつ知性が必要とされるか理解していただきたい」とレクチャー(DVD)で語っているが、このような真摯な取り組みが豊かな実を結んでいることに、本当に感銘を受けた。

 そして圧倒的だった最後の《幻想曲とフーガ イ短調BWV904》。オルガン曲を想定していると思われる曲で、バッハを聴く醍醐味(もちろんフーガだ)を満喫。無限に続くとも思われる上昇ループに、気分が最高潮に盛り上がる。ヒューイットのフーガは本当に素晴らしい。お父様がオルガン奏者だったそうで、幼少から身に付いた感覚があるのだろう、オルガンを連想させる広がりを感じさせてくれたのも見事。
 今後も度々日本で聴けるとは、嬉しい限り。

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 初めて実演で接したモンテヴェルディの《Vespro》だった。
 なんということだろう、今になってこの曲の凄さを知ることになるとは、遅すぎた!その想いで今は一杯。この曲には、すでにバロック音楽の全てがある。バッハも、ヴィヴァルディもここから聴こえてくるではないか、まさにバロックの源。
 この曲は有名なので、昔CDでいくつか聴いていたものの、どうもピンとこなくて聴き込むことをしてこなかった。だから、今回はなおさら衝撃的。コンサートの後半は圧倒されてしまい、茫然としてしまった。

 確かに宗教曲。でも、これは「生」への高らかな賛歌だ。生きるということは美しく素晴らしい、その肯定感が力強い生命力を伴った音楽となって迸っている。

 「めでたし、海の星 祝福される、海の御母 永遠に変わることのない乙女にして 恵まれた天の門」、聖母マリアは母性の象徴でもある。この讃歌に浮かぶのは、やはりヴェネツィア(初演はマントヴァと推定されているが、その後ヴェネツィアでも演奏されたはずだ)。
 そう、この曲はいやがおうにもヴェネツィアを想い起させる。ヴェネツィアでは、昔から現在まで「海との結婚」が儀式として行われている。ドージェ(元首)は指輪を投げ入れ、宣言する「汝と結婚する、海よ。永遠にお前が私のものであるように」と。
 歌声のメリスマの揺らぎは、サン・マルコ寺院(聖堂 Basilica di San Marco)の黄金のモザイクの揺らめきを、そしてオルガンの響きは、夕日に照らされ艶やかに浮かび上がるサン・マルコ寺院のファサードを、祝祭に満ちる世界で最も美しい都市を、再び目の当たりにしたような感動を与えてくれた。

 見事にモンテヴェルディの核心を突いた音楽を創り上げた、コンチェルト・イタリアーノ。ありがとう、素晴らしかった!

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 演奏が終わった瞬間、本当に2時間半という時が流れたのだろうか?と感じた。まるで異空間に身を置いたような感覚。音の一つ一つに「気」が漲り、最後までピーンと空気が張りつめたような緊張感を、こうして演奏者、観客とともに分かち合える体験は滅多にないだろう。
 
 それは諸行無常の響き―とも呼びたいような、私にとっては自然と人間の対比を感じさせるものだった。人は死すべき存在であること、それは自然の摂理であるということを改めて突き付けられたようで、辛くもあった。でも、それが真実だ。

 スカルダネッリ(ヘルダーリン)による詩の響き、そして架空の日付が、時の流れを歪ませていく。
 音楽の流れは伝統的な書法(カノン)やコラールに基づいているけれど、東洋的な響きを強く感じる。フルートは能管の響きのよう、日本の「りん」(仏具)も使用され、ピアニストが触れるのは鍵盤ではなく、弦そのものだ。テープを使用したり、ペーパーを破くなど、現代音楽ではお馴染みの奏法ともいえるけれど、それが必然性を伴った音としてこちらに届いてくるのは、凄い。
 自然は宇宙ともいえるものだな、と。そうした広がりに身を浸すことのできた一時。長く記憶に残りそうだ。

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 来日の度に聴かずにはいられない、楽しみにしていたヴェニス・バロック・オーケストラの公演へ。
 今回はマンドリン奏者のアヴィタルがソリスト。曲はもちろんヴィヴァルディがメイン!ヴィヴァルディがマンドリンのために作曲した協奏曲を実際に聴くのは初めて。というか、マンドリンは愛好者も多いポピュラーな楽器でありながら、オーケストラとの共演を含め、演奏自体を聴くこと自体が滅多にないので、そうした意味でも、マンドリンの響きに触れるのを楽しみにしていた。

 ヴェニス・バロックの音、鳴った瞬間からみるみる空気が変わっていくような味わいはいつもながら。明るく艶のある、ヴェネツィアン・サウンドとはこのこと。軽やかでありながら、そこはかとない哀愁が漂い、夢うつつの境地に誘ってくれる。イタリア(ヴェネツィア!)の風を感じるがごとくで、すっかり気持ちは憧れの地へ。
 オーケストラの精度としては、前半は今一つだったかもしれないが、このオケ&曲でそれをいうのは全く野暮というもの。エヴィソンの合奏協奏曲はポリフォニックな味わいで、オケ自体の表現力もアピールしようとする心意気が伝わってきた。
 
 そしてアヴィタル、これはもうマンドリンしゃない!と思わせてしまうほどダイナミックでエキサイティングな演奏。まず、音自体がよく響いて、こんなに輝かしい音が出るのかと驚いてしまった。そしてオーケストラ相手に一歩も引けをとらない音量と迫力。表現の幅が広くて、繊細なピアニッシモの甘やかさにもうっとり。マンドリンでここまでできるなんて!
 最後に演奏されたヴィヴァルディ《四季》〝夏”は、ヴェニス・バロックの十八番中の十八番だが、聴くたびにこの曲自体の斬新さに打たれてしまう。当時はさぞかし衝撃的だったろうと納得がいく、奇跡の一曲。
 一番気に入ったのは、パイジェッロのマンドリン協奏曲。オペラ・ブッファを想い起させる、生き生きとした躍動感があり、とっても魅力的だった。雰囲気がヴェネツィアというより、やはりナポリっぽくて、楽しいこと!

 マンドリンを情熱的にかき鳴らすアヴィタルは、とても素敵で、これで愛の歌でもうたわれようものなら、全ての女性がコロッと参ってしまいそう。若さの勢いがあっていいな、と。

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 評価の高いジョン・アダムズ《シェへラザード.2》を、世界初演時と同じ指揮者、ソリストで体験できるということもあって期待していたコンサート。真打ちはこの曲なのだろうが、前半でのラヴェル《マ・メール・ロワ》が、素敵だった。
 精巧なガラス細工でできたおとぎの国の主人公たちが、動くたびに光を反射して煌めくような音の響き、繊細な表現。聴いているうちにだんだんと童心に還っていくようで、終曲では子供の頃大好きだった世界の民話の本(人魚とか、魔法使いとかも...)までもが浮かび上がり、懐かしさで胸が一杯になってしまった。
 ラヴェルは私にとって付き合いの長い作曲家。10代の頃、勧められるままに《亡き王女のためのパヴァーヌ》《ソナチネ》とレッスンで弾いてから、その独特なニュアンスのある音楽に夢中になった。特にピアノ協奏曲に心奪われてしまって、2楽章を弾きたいがために、スコアまで購入してしまったことを思い出す。

 そして《シェへラザード.2》。アダムズの作品は十年以上前に東京で上演されたオペラ《エル・ニーニョ》で初めて接し、一昨年には東京オペラシティで《サクソフォン協奏曲》を聴いた。洒脱でエキサイティングな流れ、オーケストラをフル活用した構築的な音楽が魅力的で、さすがだな、と。《クリングホファーの死》も、ぜひMETライブビューイングで観たかったが、残念。

 《シェへラザード.2》は、ソリストの気迫溢れる演奏と指揮の息もぴったりで見事だった。
 曲としての完成度も抜群で、過去から学んだという彼自身の語法が強く感じられる(ミニマムに流れない)のが、とても好ましい。音楽に対して真摯であることの証明だと思う。
 でも、ここで表現しようとしているテーマを考えると―この曲は美しすぎる、と。現在の「シェヘラザード」たちが置かれている状況は、夢物語とは程遠く、さらに過酷さを増しているのではないだろうかと。
 昨年に聴いたバーンスタイン《カディシュ》が、当事者の叫びが脳裏に蘇り、胸になにか重いものが覆いかぶさるのを感じながら、会場を後にした。

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       「夜は全てお前のもの...お前が一番美しい...
          もう、いつまでも夜だ...、夜...、夜...」
              (《青ひげ公の城》終結部より 台本:ベラ・バラージュ)

 今だに「ああ、もう一度聴きたい」と余韻の残る、圧倒的な演奏で素晴らしかった《青ひげ公の城》。
 バルトークは室内楽(ヴァイオリン・ソナタなど)では何度か実演に接して感銘を受けてきたけれど、オーケストラ(オペラ)作品は初めて。映像で昔に観ているが実演で接してみると、こんなにも凄い作品だったとは目から鱗。緊張感みなぎるドラマに引き込まれ、魂が異次元に吸い込まれていくような心持ちになった。この作品、大好きだ。

 バルトークは、伝説や寓話でよく知られるこの物語を、耽美で倒錯的ともいえる愛の形に置き換え、男女の濃密な心理劇として、くっきりと鮮やかな輪郭で描いていく。その背景は、禁じられた扉を開くたびに見えてくる、どこまでも幻想的な美の世界だ。
 全編を通して現れる血の動機に感じるのは、滴る鮮血の氷のような熱さ。冷え冷えとした流れの中から、時折泡立つように浮き上がってくる色彩が、どんどん鮮やかになっていき、胸が締め付けられる。そして徐々に無色に近づき、最後は永遠の闇だ...。

 ユディットはそれまでの人生全てを投げ打ち、青ひげ公に嫁いできた。すべてを知ってはならないという青ひげ公の懇願を受け入れず、「口づけをおくれ...」という愛の求めにも応じず、「すべての扉を開けてほしい」と要求する。
 愛という名のもとに(愛しているがゆえに)、相手を支配しようとする女と、その望みを受けいれようとする男。でも、女がその望みを果たそうとするその時に、関係は逆転してしまう。男女の愛は、かくも謎めいて不可思議なもの…と、改めて感じたエンディングだった。
 
 これが演奏会形式であったのは幸いだったな、と。
 観客それぞれが自分のイマジネーションを自由に膨らませられる。この壮大で幻想的な世界を舞台で表現するのは、至難の業だと思う。

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