カテゴリ:コンサート( 40 )

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 やっと、ヒューイットのバッハを実際に聴ける。それもオール・バッハプログラム(2日連続!)なんて夢のよう、と高ぶる思いで紀尾井ホールに。
〝The Bach Odyssey —バッハ遍歴”の第一弾は2声のインヴェンションと3声のインヴェンションを軸としたプログラム。ピアノを多少なりとも弾いてきたものにとっては、馴染み深い曲集だ。
 
 この記念すべきバッハ遍歴は《幻想曲ハ短調BWV906》から。嵐の前触れを感じさせるエネルギッシュな曲(半音階が効いていて、カッコいい!)を颯爽と奏でるヒューイットに、初めからノックアウト状態、凄い!
この曲は、C.P.Eバッハがソナタ形式を開発するのに、影響を与えたに違いないとのこと。すっかりこの曲に魅せられてしまい、コンサート後にCDで繰り返し聴いている状態。
そして《イタリア風のアリアと変奏BWV989》を経て、《2声のインヴェンション》《3声のインヴェンション》へ。

 私も2声は全曲、3声は半分程度弾いたが、易しい学習用の曲と認識されがちなこの曲集を、ヒューイットはなんと表現豊かに聴かせてくれたことか。一曲一曲の個性がしっかりと打ち出されており、声部の弾き分けはもちろん、装飾音も美しく、丁寧に吟味を重ねた解釈であることが伝わってくる。
 生き生きとして、曲それぞれが色合いの異なる宝石のような輝き。それはヒューイットと同一化しているファツィオリのピアノの音色でもある。現代のピアノなのに金属的ではなく、まろやかで、フォルテピアノのような響き。
 「たった1ページ弾くためには、どれほどの思索、注意かつ知性が必要とされるか理解していただきたい」とレクチャー(DVD)で語っているが、このような真摯な取り組みが豊かな実を結んでいることに、本当に感銘を受けた。

 そして圧倒的だった最後の《幻想曲とフーガ イ短調BWV904》。オルガン曲を想定していると思われる曲で、バッハを聴く醍醐味(もちろんフーガだ)を満喫。無限に続くとも思われる上昇ループに、気分が最高潮に盛り上がる。ヒューイットのフーガは本当に素晴らしい。お父様がオルガン奏者だったそうで、幼少から身に付いた感覚があるのだろう、オルガンを連想させる広がりを感じさせてくれたのも見事。
 今後も度々日本で聴けるとは、嬉しい限り。

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 初めて実演で接したモンテヴェルディの《Vespro》だった。
 なんということだろう、今になってこの曲の凄さを知ることになるとは、遅すぎた!その想いで今は一杯。この曲には、すでにバロック音楽の全てがある。バッハも、ヴィヴァルディもここから聴こえてくるではないか、まさにバロックの源。
 この曲は有名なので、昔CDでいくつか聴いていたものの、どうもピンとこなくて聴き込むことをしてこなかった。だから、今回はなおさら衝撃的。コンサートの後半は圧倒されてしまい、茫然としてしまった。

 確かに宗教曲。でも、これは「生」への高らかな賛歌だ。生きるということは美しく素晴らしい、その肯定感が力強い生命力を伴った音楽となって迸っている。

 「めでたし、海の星 祝福される、海の御母 永遠に変わることのない乙女にして 恵まれた天の門」、聖母マリアは母性の象徴でもある。この讃歌に浮かぶのは、やはりヴェネツィア(初演はマントヴァと推定されているが、その後ヴェネツィアでも演奏されたはずだ)。
 そう、この曲はいやがおうにもヴェネツィアを想い起させる。ヴェネツィアでは、昔から現在まで「海との結婚」が儀式として行われている。ドージェ(元首)は指輪を投げ入れ、宣言する「汝と結婚する、海よ。永遠にお前が私のものであるように」と。
 歌声のメリスマの揺らぎは、サン・マルコ寺院(聖堂 Bailica di San Marco)の黄金のモザイクの揺らめきを、そしてオルガンの響きは、夕日に照らされ艶やかに浮かび上がるサン・マルコ寺院のファサードを、祝祭に満ちる世界で最も美しい都市を、再び目の当たりにしたような感動を与えてくれた。

 見事にモンテヴェルディの核心を突いた音楽を創り上げた、コンチェルト・イタリアーノ。ありがとう、素晴らしかった!

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 演奏が終わった瞬間、本当に2時間半という時が流れたのだろうか?と感じた。まるで異空間に身を置いたような感覚。音の一つ一つに「気」が漲り、最後までピーンと空気が張りつめたような緊張感を、こうして演奏者、観客とともに分かち合える体験は滅多にないだろう。
 
 それは諸行無常の響き―とも呼びたいような、私にとっては自然と人間の対比を感じさせるものだった。人は死すべき存在であること、それは自然の摂理であるということを改めて突き付けられたようで、辛くもあった。でも、それが真実だ。

 スカルダネッリ(ヘルダーリン)による詩の響き、そして架空の日付が、時の流れを歪ませていく。
 音楽の流れは伝統的な書法(カノン)やコラールに基づいているけれど、東洋的な響きを強く感じる。フルートは能管の響きのよう、日本の「りん」(仏具)も使用され、ピアニストが触れるのは鍵盤ではなく、弦そのものだ。テープを使用したり、ペーパーを破くなど、現代音楽ではお馴染みの奏法ともいえるけれど、それが必然性を伴った音としてこちらに届いてくるのは、凄い。
 自然は宇宙ともいえるものだな、と。そうした広がりに身を浸すことのできた一時。長く記憶に残りそうだ。

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 来日の度に聴かずにはいられない、楽しみにしていたヴェニス・バロック・オーケストラの公演へ。
 今回はマンドリン奏者のアヴィタルがソリスト。曲はもちろんヴィヴァルディがメイン!ヴィヴァルディがマンドリンのために作曲した協奏曲を実際に聴くのは初めて。というか、マンドリンは愛好者も多いポピュラーな楽器でありながら、オーケストラとの共演を含め、演奏自体を聴くこと自体が滅多にないので、そうした意味でも、マンドリンの響きに触れるのを楽しみにしていた。

 ヴェニス・バロックの音、鳴った瞬間からみるみる空気が変わっていくような味わいはいつもながら。明るく艶のある、ヴェネツィアン・サウンドとはこのこと。軽やかでありながら、そこはかとない哀愁が漂い、夢うつつの境地に誘ってくれる。イタリア(ヴェネツィア!)の風を感じるがごとくで、すっかり気持ちは憧れの地へ。
 オーケストラの精度としては、前半は今一つだったかもしれないが、このオケ&曲でそれをいうのは全く野暮というもの。エヴィソンの合奏協奏曲はポリフォニックな味わいで、オケ自体の表現力もアピールしようとする心意気が伝わってきた。
 
 そしてアヴィタル、これはもうマンドリンしゃない!と思わせてしまうほどダイナミックでエキサイティングな演奏。まず、音自体がよく響いて、こんなに輝かしい音が出るのかと驚いてしまった。そしてオーケストラ相手に一歩も引けをとらない音量と迫力。表現の幅が広くて、繊細なピアニッシモの甘やかさにもうっとり。マンドリンでここまでできるなんて!
 最後に演奏されたヴィヴァルディ《四季》〝夏”は、ヴェニス・バロックの十八番中の十八番だが、聴くたびにこの曲自体の斬新さに打たれてしまう。当時はさぞかし衝撃的だったろうと納得がいく、奇跡の一曲。
 一番気に入ったのは、パイジェッロのマンドリン協奏曲。オペラ・ブッファを想い起させる、生き生きとした躍動感があり、とっても魅力的だった。雰囲気がヴェネツィアというより、やはりナポリっぽくて、楽しいこと!

 マンドリンを情熱的にかき鳴らすアヴィタルは、とても素敵で、これで愛の歌でもうたわれようものなら、全ての女性がコロッと参ってしまいそう。若さの勢いがあっていいな、と。

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 評価の高いジョン・アダムズ《シェへラザード.2》を、世界初演時と同じ指揮者、ソリストで体験できるということもあって期待していたコンサート。真打ちはこの曲なのだろうが、前半でのラヴェル《マ・メール・ロワ》が、素敵だった。
 精巧なガラス細工でできたおとぎの国の主人公たちが、動くたびに光を反射して煌めくような音の響き、繊細な表現。聴いているうちにだんだんと童心に還っていくようで、終曲では子供の頃大好きだった世界の民話の本(人魚とか、魔法使いとかも...)までもが浮かび上がり、懐かしさで胸が一杯になってしまった。
 ラヴェルは私にとって付き合いの長い作曲家。10代の頃、勧められるままに《亡き王女のためのパヴァーヌ》《ソナチネ》とレッスンで弾いてから、その独特なニュアンスのある音楽に夢中になった。特にピアノ協奏曲に心奪われてしまって、2楽章を弾きたいがために、スコアまで購入してしまったことを思い出す。

 そして《シェへラザード.2》。アダムズの作品は十年以上前に東京で上演されたオペラ《エル・ニーニョ》で初めて接し、一昨年には東京オペラシティで《サクソフォン協奏曲》を聴いた。洒脱でエキサイティングな流れ、オーケストラをフル活用した構築的な音楽が魅力的で、さすがだな、と。《クリングホファーの死》も、ぜひMETライブビューイングで観たかったが、残念。

 《シェへラザード.2》は、ソリストの気迫溢れる演奏と指揮の息もぴったりで見事だった。
 曲としての完成度も抜群で、過去から学んだという彼自身の語法が強く感じられる(ミニマムに流れない)のが、とても好ましい。音楽に対して真摯であることの証明だと思う。
 でも、ここで表現しようとしているテーマを考えると―この曲は美しすぎる、と。現在の「シェヘラザード」たちが置かれている状況は、夢物語とは程遠く、さらに過酷さを増しているのではないだろうかと。
 昨年に聴いたバーンスタイン《カディシュ》が、当事者の叫びが脳裏に蘇り、胸になにか重いものが覆いかぶさるのを感じながら、会場を後にした。

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       「夜は全てお前のもの...お前が一番美しい...
          もう、いつまでも夜だ...、夜...、夜...」
              (《青ひげ公の城》終結部より 台本:ベラ・バラージュ)

 今だに「ああ、もう一度聴きたい」と余韻の残る、圧倒的な演奏で素晴らしかった《青ひげ公の城》。
 バルトークは室内楽(ヴァイオリン・ソナタなど)では何度か実演に接して感銘を受けてきたけれど、オーケストラ(オペラ)作品は初めて。映像で昔に観ているが実演で接してみると、こんなにも凄い作品だったとは目から鱗。緊張感みなぎるドラマに引き込まれ、魂が異次元に吸い込まれていくような心持ちになった。この作品、大好きだ。

 バルトークは、伝説や寓話でよく知られるこの物語を、耽美で倒錯的ともいえる愛の形に置き換え、男女の濃密な心理劇として、くっきりと鮮やかな輪郭で描いていく。その背景は、禁じられた扉を開くたびに見えてくる、どこまでも幻想的な美の世界だ。
 全編を通して現れる血の動機に感じるのは、滴る鮮血の氷のような熱さ。冷え冷えとした流れの中から、時折泡立つように浮き上がってくる色彩が、どんどん鮮やかになっていき、胸が締め付けられる。そして徐々に無色に近づき、最後は永遠の闇だ...。

 ユディットはそれまでの人生全てを投げ打ち、青ひげ公に嫁いできた。すべてを知ってはならないという青ひげ公の懇願を受け入れず、「口づけをおくれ...」という愛の求めにも応じず、「すべての扉を開けてほしい」と要求する。
 愛という名のもとに(愛しているがゆえに)、相手を支配しようとする女と、その望みを受けいれようとする男。でも、女がその望みを果たそうとするその時に、関係は逆転してしまう。男女の愛は、かくも謎めいて不可思議なもの…と、改めて感じたエンディングだった。
 
 これが演奏会形式であったのは幸いだったな、と。
 観客それぞれが自分のイマジネーションを自由に膨らませられる。この壮大で幻想的な世界を舞台で表現するのは、至難の業だと思う。

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 すっかり春爛漫の陽気。イースターを明日に控えたこの時節にふさわしい、前半のプログラム。
 メシアン《忘れられた捧げもの》は、本格的な作曲を開始した頃のもので(20代前半)、初期からカトリックの信仰に貫かれている姿勢が明確。イエスの憐みとそれを忘れてしまった人間の罪がテーマであり、イエスの「十字架」「聖体の秘跡」と人間の「原罪」のコントラストが心に響く。最後に弦で奏でられたピアニッシモ、このかすかな一筋の光線のような表現は、やはりメシアンでこそのもの。この敬虔な想いを、自分は生かされているのだという感覚を忘れないようにしたい。

 そしてドビュッシー《聖セバスティアンの殉教(交響的断章)》。これは初めて聴く曲だったので、楽しみにしていたもの。ダヌンツィオからの依頼と作詞ということもあるからだろうか、第1曲〝百合の園”開始のファンファーレがジャポニズムの感覚がかなり強かったので驚いてしまった。題材はもちろん殉教した聖セバスティアンなのだが、私の中ではプッチーニ《マダム・バタフライ》《トゥーランドット》と音楽が被ってしまった。ドビュッシーは音楽のジャポニズムの第一人者だが、ピアノ曲や《ペレアスとメリザンド》等でも、ここまでくっきりと感じたことがなかったので...。
 第2曲「法悦の踊り」から終曲「良き羊飼いキリスト」では、ドビュッシーの真骨頂ともいえる、神秘的な雰囲気に包まれて、殉教の魂も鎮まるような穏やかさ。この2曲を通して宗教的静謐さに満ちた前半から、後半のバルトークの歌劇《青ひげ公の城》へ。このバルトークが素晴らしくて!オーケストラを聴く醍醐味を存分に味合わせてくれた壮絶な名演、また改めて記したいなと。
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ジョヴァンニ・ベッリーニの描く美しすぎる聖セバスティアン。
ヴェネツィアのアカデミア美術館にて。


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 春を感じるとはいえ、まだ寒さが抜けず桜の開花が待ち遠しい日々。今日はオール・イタリアン・プログラムのコンサートへ。イタリア文化会館が会場ということで、これ以上に嵌まる場所もないというもの。
 東京ヴィヴァルディ合奏団の演奏で、まずはヴィヴァルディのヴァイオリンコンチェルト《恋人たち》。この華やかな響きの色合いに浮かび上がるのは、やはりヴェネツィア。ああ、美しいところだったと情景がよみがえり、郷愁の念に駆られてしまう。
 
 ヴィヴァルディのあとは、どれも初めて聴く曲。
 ロッシーニ《チェロとコントラバスのための二重奏曲》は、最後に演奏されたドニゼッティ《弦楽四重奏曲 第5番(弦楽合奏版)》とともに、雰囲気がまさにオペラ。ロッシーニは低音楽器で、ユニークな構成だけれど、それでも十分にオペラ・ブッファで感じるような愉悦を感じさせてくれるのはさすが。圧倒的だったのがドニゼッティ、オペラの縮小版ともいえるほどの曲の完成度の高さに驚いてしまった。今までドニゼッティのオペラを積極的に聴いてきたとはいえないが、この弦楽四重奏曲を聴いて「あー、やはりこれは直球ど真ん中のイタリアものだ。イタリア魂を感じるなぁ。」と改めて納得。演奏がとってもよくて、大満足。

 そしてボッシ《ゴルドーニ間奏曲》、ボッケリーニ《弦楽五重奏曲「マドリードの夜の音楽」》。
 《ゴルドーニ間奏曲》はその名の通り、ヴェネツィアの劇作家ゴルドーニから。戯曲を想い起させ、まるで音楽による喜劇のよう。ドタバタ感や皮肉めいた言い回しが溢れ出るかのごとくで、楽しい気分が盛り上がること!ボッシは19世紀後半なので、書法もモダン。気に入ったので、全曲版でまた聴きたいな。ボッケリーニは、こんなに楽しい曲も作っていたんだと。渋い曲のイメージがあるので、新鮮だった。

 音楽だけでも体全体でイタリアを感じられる、今回のプログラム。イタリアの情熱に包まれて、充実感たっぷりだった。

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休憩時にいただいたサンドウィッチ&サブレ。美味しかった♪

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 音楽との運命的な出会いというのは大げさかもしれないが、そうしたものを今までに何度か体験してきた。メシアンもそのうちの一つだ。曲を実際に聴いたのは、ここ最近のこと(昨年のコンサートにて)。
 そのときは、メシアンの曲が目当てではなかったが、プログラムに入っていた《世の終わりのための四重奏曲》に、強烈な印象を受けた。これほどまでに生と死の境目が限りなく薄くなっていくような「彼岸」の世界を感じさせてくれる体験は初めてで、それから、メシアンは私にとって特別な作曲家の一人となった。この世界は、実際に奏でられる音を聴かなければ、体験できなかったかもしれない。そう、メシアンの音楽は「聴く」というよりも、「体験(その響きの世界を身体全体で感じる)」として捉えるのが、私にはぴったりとくる。

 今回は3回目のメシアン。
 現代音楽に共通する部分かもしれないが、メシアンの曲は伝統的な音楽構成の要素を否定しながらも、音楽の持ちうる力—時を操作しようとする意思をとても強く感じる。時を流れゆくままにさせるのではなく、時と空間を歪ませて(もしくは広げて)、現世ではない別次元の世界に引き込むような…。
 今回の〈彼方の閃光〉では、確かに永遠を感じさせるものが聴こえていた。「私が彼岸を、永遠を信じているからです」とメシアンは語っていたそうだが、そうでなければ、これほどまでの説得力を持つ音楽は生まれてこないだろうと思う。
 武満さん曰く、メシアンは大変な理論家で、「かなり数理的な操作で曲を作っているようだけど、実際には、直感的に作曲していたんだと思うんです。」(『武満徹・音楽創造への旅』立花隆著 より)

 〈彼方の閃光〉の第5楽章〝愛の中に棲む”は、とても不思議な感覚、何か大いなるものの胎内にいるような安らぎと陶酔感だった。第8楽章〝星たちと栄光”で奏でられるコラールは、声楽は入っていないのに、トゥッティの壮大な響きに包まれ、生きとし生けるもの全てが天に向けて謳いあげているような感覚で、身震いしてしまいそうに。
 私にとってはまだまだ未知のメシアン。今後も体験する機会を楽しみにしたい。

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 今年のコンサート始めも、ヘンデル・フェスティバル・ジャパンの公演から。
 ヘンデルに敬意を表して、演奏は常にノーカットを旨としているのが凄い。この真摯な取り組みが、昨年をさらに超える音楽の充実として実を結んでいるのが伝わってきた。
 この作品はかなりの長丁場だが、傑作という評価に違わず、長さを感じさせない迫真のドラマが展開され、改めてヘンデルのオラトリオの素晴らしさを目の当たりにすることができた。《メサイア》を除いては、日本で上演に恵まれないヘンデルのオラトリオに接することができて、貴重な機会だったのはもちろんだが、大事なのは、それがヘンデルの「珍しい作品を演奏」→「珍しい作品を聴いた」ということが先に立つような内容ではなく、レンブラントの名画以上の、まるで古代にタイプスリップしたかのような、目の前で聖書のバビロニアの世界が展開する感覚を味合わせてくれたことだと思う。
 ドビュッシーがいったように「芸術というものは、"うそ”のうちで最も美しいうそです。…一般大衆も、エリートも、忘我というものを求めて芸術に集まってくるのではないでしょうか。忘我、これまた“うそ”のもう一つの形式でしょう。」そう、我を忘れるぐらいに、その音楽ドラマに惹き込まれてしまった。

 聖書を元にしているオラトリオだが、プログラムにもある通り、主題は「母が罪深い息子に注ぐ愛に映し出される、国家の衰退」で、時代も宗教も超えた普遍的なテーマとなっている。難しいことを考えずとも、誰でもスッと物語に入り込める。観客を楽しませようとするエンターテイメント性が強く感じられ、面白い。やはり大衆向けなのだろう、同世代のラモーのオペラとの違いを感じずにはいられない。

 演奏では、序曲こそ固さが感じられたものの、冒頭に置かれた母親ニトクリスの嘆きのアリアから、あっという間にヘンデルの世界へ惹き込まれてしまった。
 このアリアを聴くだけで、毎度ながらヘンデルは天才だ、と。どうしてこうも心情にぴったりな音楽を付けられるのかと、信じられない思いになる。
 ヘンデルのこうしたアリアの説得力は凄くて、同世代のなかでも、ずば抜けていると感心してしまう。書法自体も、オペラ時代よりさらに表現が細やかに進化しているように思えて、感動。
 来年の公演も、今からとても楽しみだ。

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