カテゴリ:コンサート( 37 )

 演奏会前に友人とダリ展へ。最も好きな《狂えるトリスタン》が来ていた。
10代最後の頃、画集で観たこの絵に一目惚れをした。それはもちろんワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》をいやがおうにも思い起こさせるから。私の抱くこのオペラのイメージと、ダリが描く《狂えるトリスタン(とイゾルデ)》の悲劇的なグロテスクさが、ぴったりと重なり合う。

 そしてサントリーホールへ。友人からチケットを譲っていただいた東京交響楽団の定期演奏会。
 プログラムはワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》第一幕への前奏曲から。先ほど観たダリの《狂えるトリスタン》が思い浮かぶかと思いきや、演奏は透明感に溢れ、澄んだ穏やかな渚を進むような静謐さ。天上の世界へ真っ直ぐ向かう雰囲気で、美しかった。ダリが描いた救いの無い、世紀末的な悲劇さからは遠いもの。

 そして、前奏曲の張りつめた静謐さを留めながら、休止なしでデュティーユのチェロ協奏曲《遙かなる遠い国へ》。
 初めて聴いた曲だが、これがもうチェロのヨハネス・モーザーともに素晴らしく、ノットによるプログラミングの妙に感心。
 この曲は、ボードレール『悪の華』からインスピレーションを得て作曲されたもの。曲名は「髪」の一節<遥かな、不在の、ほぼ死に絶えた世界が全て、おまえの深みのうちに、かぐわしい森のうちに生きている>から採られている(プログラムより)。

 現代音楽だけあって、多彩な打楽器に、ハープやチェレスタも入っている。難曲ではあるだろうが、騒然とした曲の作りではなく、むしろすっきりとした印象。打楽器が効果的に生かされており、鐘の音(銅鑼)が、いくつも木霊するなかで、太古の森を思わせる幻想的な世界が広がっていき、まるで魅惑的な魔術にかけられたような心持ちになった。

 第三楽章〈黒檀の海よ、おまえにはまばゆいほどの夢がある 帆や漕ぎ手、長旗、そしてマストの夢が〉(「髪」より)は、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》にそのまま呼応しているかのよう。そう思うと、よりイメージが広がっていく。なんと艶やかな詩だろう!
 最終楽章の讃歌〈夢を持ち続けよ 賢人は狂人ほど美しい夢はもたないのだから〉(「声」より)に、またダリの《狂えるトリスタン》がよみがえってしまった。ダリのシュルレアリスム世界とも繋がっていくような…。
 
 それにしても、ボードレールの詩は、断片だけでも素晴らしい。そうだ、ボードレールは、ワーグナーについても批評していたのだった。ワーグナーとの繋がりがやはりあったな、と。

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 ヴェネツィア最後の夜。滞在の締めくくりは、再びフェニーチェ劇場へ。
 バロック音楽ヴェネツィアンセンター主催のソプラノ&テオルボによるコンサート。モンテヴェルディ&ヴィヴァルディ・フェスティバル2016の公演で、会場は劇場内の小ホール的な場所(アポロンの間)。こじんまりとしたコンサートにはぴったり。
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 ~AMOR,IO PARTO~
  Dal《Lamento d’Arianna》di Monteverdi,alle《Fonti del pianto》di Vivaldi
 ~愛の神よ、私は去りゆく~
  モンテヴェルディ《アリアンナの嘆き》からヴィヴァルディ《涙の泉》へ

 締めくくりのコンサートは、奇しくもバロック。しかもヴェネツィアと深い所縁のある二人の名を冠したコンサート。好きな音楽に囲まれた、こんな幸福な夜を最後に過ごせるなんて!ヴェネツィアからの贈り物に、ありがとう。

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 私にとっての殺し文句、それは《オール・バッハ・プログラム》。そう銘打たれたコンサートがあると、「わぁ、いいなぁ」と瞬間的に胸が高鳴る。
 はいえ、演奏機会の多い無伴奏系(独奏)はあまり食指が動かず、かといって宗教カンタータや受難曲となると、その曲の性格から、ウキウキとコンサートを楽しみに行く雰囲気とは異なってくる。もちろん、聴けば心震える。自分が大病した時など、カンタータにずいぶんと慰められた。
 バッハの曲は「堅い(難い)」印象を与える音楽ばかりではなく、カンタータの中にも思わず耳を奪われてしまう美しい旋律の曲があるし、器楽曲も幅が広い。何より、バッハの紡ぎだす音の絡み合いに身を委ねる快楽は、バッハでしか得られない、特別なものがある。

 今回のプログラムは、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタを中心としたもの。このソナタ集も各曲それぞれに個性的で、バッハらしい綿密な音のアラベスクが、デュオによる華麗な掛け合いで広がっていく。
 それをファウスト&ベザイデンホウトという名手2人で楽しめるなんて!これを聞き逃す手があるだろうか。

 チェンバロを弾いたベザイデンホウトはモーツァルトの評価が高いが、私は全く聴いたことがなく、今回が初めて。このヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集では、チェンバロはただの伴奏ではなく、ヴァイオリンと共にメロディーを奏で、かつ通奏低音も兼ねるという、時代を先取りした形式。演奏が難しいのは当然だが、エキサイティングな弾きっぷりに魅了されてしまった。
 ソロ曲のトッカータニ短調も良かったけれど、ソナタ第6番のチェンバロ・ソロの盛り上がりには、私も気分が高揚。もっと聴いてみたいなと思わせてくれる。
 ヴァイオリンのファウストは、曲ごとに弓を替えながらという研究熱心さが窺え、手堅い演奏だったが、もっと弾んでもいいような。バッハを聴く快楽を味合わせてくれる演奏に出会うのは、やはり難しい。

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 今月初めにフォーレ四重奏団の演奏を聴き、そのブラームスに感銘を受けCDを求めてきた(サインまで…)。
 そのブラームスのCDを改めて聴いているところだが、自分の捉えた印象が「あれ(感想を載せている)」では甘かったなぁと。その演奏は、現在のクラシック演奏の、まさに最前線ぶっちぎりではないだろうか。どうしても演奏のイメージがクルレンツィス(今、最も実際に聴いてみたい指揮者だ)と被ってしまう。外見さえ異なるが、この二つのグループによる演奏を聴いていると、目指す方向は一緒のように思えてならない。

 立花隆さんの『武満徹・音楽創造への旅』に、次の武満さんの言葉がある。
「…規格化によって西洋音楽の音は、生命を失ってしまったんだと思う。西洋音楽の音は、ピュアで、ピッチも正確だけど、日本楽器の音、東洋やアフリカの楽器の音はピュアじゃない。常に余分な音というか、雑音を伴っている。しかしその雑音の部分が独特の響きを生み、音の個性を作っているんですね。そして音楽の生命は、その音の個性にあるんです。そこのところがようやくわかってきたので、音楽の最前衛部分では、楽音の規格化と標準化の流れに抗して、規格化された楽器を規格外の奏法で弾くことによって、音の個性を取り戻そうとしたんです。…つまり、現代音楽における特殊奏法の流行と、古典音楽の復元楽器による演奏の流行とは、全く別物のように見えるかもしれないけれど、実は同じ流れの中で起きた現象だということです。楽器の音に個性を取り戻すことで、音楽の生命を取り戻そうとしたということです」

 フォーレ四重奏団の音は、「歪んで」いる。その歪みは、あるときにはこれ以上はないというほどに、大きくたわみ、震えて、こちらに跳ね返ってくる。でも、確かにブラームスで、そのざらついた手触りからドクドクと脈打つ命の鼓動が、生々しい息吹が伝わってくる。なんて、新しい音の響き…。
 これからさらに演奏がどう進化していくのか、続きが気になる四重奏団であることは間違いないな、と。

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 イタリアのバス歌手、フルラネットのリサイタルへ。
 本人の提案により、ロシア歌曲プログラム、しかもラフマニノフ&ムソルグスキーという滅多にない内容だ。これがロシア歌曲ではなく、もう一方の提案であったという《冬の旅》だったらチケットを求めなかっただろう(《冬の旅》はもちろん名曲中の名曲だが)。ラフマニノフの曲は、私にとっても馴染み深く、ラフマニノフ自身がピアニストだっただけに、素晴らしいピアノ曲がいくつもある。ロシアの薫りを強く感じるコンチェルトはもちろんだが、ピアノ・デュオもいい。ほとんど演奏されないが、交響曲も好きだ。

 しかし、声楽曲は聴いたことがなく、むろんムソルグスキーに至っては《展覧会の絵》しか思い浮かばない…。ラフマニノフの歌曲への好奇心が勝って、今回のコンサートへ駆けつけることとなった。

 プログラムの前半は、ラフマニノフの歌曲から。プログラムを読むと、彼の歌曲はロシア声楽史の最高傑作で、しかも最初期(10代最後)から秀作を連発しているとのこと。もう仰天である。実際聴いてみて、その美しさにまた驚愕し、うっとりと我を忘れてしまうという感覚に陥った。その旋律の甘美なことといったら、もうこの上ない。ロシア語がどうだという前に、すでに旋律がラフマニノフ節全開である。
 愛の歌が中心となっていたが、特に《秘やかな夜の静寂の中で》での夢見るような歌、「愛しい君の名を呼んで、夜の闇を突き破るだろう...」と、最後に高音のピアニッシモでささやくように歌われたフルラネットの声は陶酔感に満ちて、この世のものではないような響き。プログラム終了前だが、観客席からも思わず拍手と「ブラヴォー」の声が飛ぶ。
 フルラネットの声はバスで力強いものだが、高い表現力で、バリトン曲はもちろんソプラノ曲まで柔軟に歌いこなしていた。限りなくロマンチックな曲を、情熱を込めて歌い上げる姿に、やはりイタリア人だなぁと。
 そして、ピアノ(イーゴリ・チェトゥーエフ)も力強い厚みのある音、そしてラフマニノフ特有の華麗さが存分に伝わるもので、息もぴったり。

 プログラム後半は、ムソルグスキー。なんといっても歌曲集《死の歌と踊り》が圧巻。プログラム前半が生の喜びだったのとは反対に、死の勝利に。バスの底力がここぞとばかりに迫ってきて、その凄みといったら、まさにフルラネットの真骨頂。なんという異色の歌曲だろうか、ロシア歌曲の金字塔とのことだが、それも納得。死の勝利を謳い上げた、めまいのするようなドラマが展開され、ただただ圧倒されるばかり…。

 アンコールがまた、にくい選曲だ。ラフマニノフの歌劇《アレコ》からカヴァティーナに、アントン・ルビンシテインの歌劇《デーモン》からアリア。
 たぶん、一生舞台で観ることのできないオペラな気がする…(《アレコ》はLDで観たけれど)。

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 ドイツ本国でも人気があるというフォーレ四重奏団、その評判を聞き、今回の公演ではブラームス(私の最も愛する作曲家だ)を取り上げるということで、トッパンホールへ。
 ブラームスの作品の中では、やはり室内楽が彼の真価を最もよく伝えてくれると思う。そう、親密な空間で、すぐ隣にブラームスが居て、密かに心情をささやいてくれるような…。

 期待が高まる中、まずはモーツァルトのピアノ四重奏曲第2番K493から。ピアノの鈴を転がすような、くっきりとした美音が素晴らしい。モーツァルトはこうした音でないと、生き生きとした彼らしい煌めきが出ない。ピアニストにとって、モーツァルトが難しい理由の一つだが、ここは完璧にクリア。ああ、こんな風にモーツァルトを弾きたい...。
 それに対して、弦はちょっと重いように感じる。どうしてもピアノの音が勝ってしまう印象だったが、この弦の重みがあれば、ブラームスはいいだろうという予感が...。

 そして細川俊夫《レテ(忘却)の水》、フォーレ四重奏団に捧げられている。題名が秀逸。現代曲によく見られる様々な奏法を駆使するのではなく、四重奏団という切り詰められた素材をストレートに用いて、意識の下へ下へと降りていく、悲しくなるほど静謐で美しい音の流れだった。
 レテの水を飲み、現世の深い悲しみを忘れるということは、深く愛した人のことも忘れてしまうということだ。それでも、皆、進んでレテの水を飲むのだろうか?生まれ変わるために、それが必要ならば、それもまた悲しい。輪廻転生は、いつか断つことができるのだろうか、と様々な想いに捉われる、深い体験を与えてくれた。

 深い余韻を残しつつ、休憩後はいよいよブラームスのピアノ四重奏曲第2番Op.26。これがもう、凄い演奏で、こちらも忘我の境地に。
 ブラームスというと、とかく渋さ(重厚)を出し、曲の構成から古典主義的アプローチの演奏が多いように思えるが、この曲は20代の、青春真っ只中に作られたものだ。同じく若書きのピアノ三重奏曲も大好きなのだが、若さゆえの感情と情熱のほとばしりが加わった、むせ返るようなロマンの薫りが、そこにはある。それを感じさせてくる演奏に出会ったのは、初めてといってもいいかもしれない。ブラームスの一般的な印象を覆してくれるような演奏に、感無量。
 ブラームスの民族音楽的な部分を、強く感じさせてくれるのも嬉しかった。故郷のハンブルクでは、よくこうした音楽を演奏していたのだろうと連想させられる。…ハンブルクに行けば、もっとブラームスに近づけるのかも、とまた思ってしまった。
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 ヴェネツィア…。それは今も昔も人々の憧れを掻き立ててやまない、煌めく水の都だ。幻想的な美しさに満ちた「アドリア海の真珠」から生み出されたバロック時代の音楽は、ヴェネツィアというイメージにふさわしい、艶やかさと煌めきを持ち合わせている。でも、ヴェネツィアが持っている世界というのは、それだけではないはずだ。須賀敦子さんのエッセイにもあるように、ヴェネツィアは演劇性と虚構とが入り混じった、そう、仮面こそがふさわしいカーニバルの町でもあるのだ…。
 
 ベルリン古楽アカデミーによるヴェネツィア・バロック・プログラムは、まるでカーニバルのように、様々に移り変わるその仮面を次から次へと鮮やかに見せてくれ、魅力的だった。
 ヴィヴァルディ《弦楽のための協奏曲》で見せてくれたのは、まさに水面にまぶしくきらめくヴェネツィア。その輝きに、うっとりと身を任せれば、現実を忘れてしまう…。
 カルダーラ《我らの主、イエスの受難》では、宗教心の篤い、信心深いヴェネツィアが顔を出す。ここでの重厚さ、対位法が際立つ曲においての表現力は、さすがのアンサンブルだと思わされる。
 アルビノーニの抒情性は、さながらゴンドラに揺られながら運河を進むような心持ち…。マルチェッロの哀愁は霧にかすむ幻想の中のヴェネツィアだ…。
 そして、アンコールのヴィヴァルディのチャッコーナ!ジャズ風アレンジで、さながらカーニバルのクライマックス、どんどん熱を帯びていき、まるで人々が踊りまくるような熱狂の渦の中で幕が閉じられた。これには驚き、観客も皆大喜び。アンコールを含め、なんともモダンなヴィヴァルディを聴かせてくれて、このアンサンブルにしか出せない色合いだろう。通奏低音がガッチリと機能しているのが(バロックでの要だ)、私の好みなので、そこがバツグンなのは嬉しい。
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 今回の来日プログラム1回目は、J.S.バッハとC.P.E.バッハを交互に組み合わせたもの。加えてモーツァルトもあり(J.S.バッハ平均律の編曲)、私にとっては最高のプログラム。演奏機会の少ないC.P.E.バッハが真打ちということで、期待に胸膨らませていた。今年初めに聴いたC.P.E.バッハのチェンバロ&ヴァイオリンのソナタも、なんともギャラントで素敵だったなぁと…。

 そして、よくぞ、C.P.E.バッハをやってくれた!と心の中で喝采を叫んでしまうほど、期待通りの「ベルリンのバッハ」だった。オーボエ協奏曲に、《6つのシンフォニア》第5番&2番と計3曲。さすが力を入れているだけあって、溌剌として、生気に溢れたC.P.E.バッハ。その魅力が存分に伝わってくる演奏で、楽しかった。ここでのアンサンブルの見事さは言わずもがな。
 ハイドンは自分の師といえるのは彼だけだったと公言していたそうだが、影響は明らかだ。特に《6つのシンフォニア》は斬新。機知に富んだ、こちらをハッとさせるような意外性のある展開で、人を楽しませてくれる。才気溢れるといった感じ。また、甘やかな緩楽章の美しいこと…。

 そう、エマヌエル(C.P.E.バッハ)の音楽は、父とはあまりにも違い過ぎる。様式の違いはもちろんだが、もう、音楽というものの意味が根本から異なってしまっていることが伝わってくる。時代は変わったのだ、親を乗り越えたのか、もしくは否定したのか…。
 当代一の人気を誇ったエマヌエルも、時代が進むと手厳しい評価に晒され、父が世間から忘れ去られたように、自らも同じ道をたどることになる。時代によって、評価が様々に変化していくことを実感させられる…。父の音楽は、今や揺るぎない地位を確立しているが、息子の音楽も(フリーデマンやクリスティアンも含めて)再評価がさらに進んで、また実演に接する機会を楽しみにしたい。
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バーンスタインによる死者のための祈り《カディッシュ》を聴いて、胸中は様々な想いで溢れているのに、それをどう表現してよいのか分からないでいる。何かを語ろうとしても、ホロコースト~人類最大の悪という現実、そして、なぜこれを見過ごしたのかという神への問いかけの前には、どんな言葉を連ねても、あまりにも軽薄にすぎるように思える。
しかし、これだけはーこの曲は、今、この時代にこそ、聴かれるべき音楽であることは間違いないー
音楽によって普遍的なメッセージを、人種と宗教を超えて平和と民主主義を願う人々へ、強く呼びかけることが可能なのだと、音楽の持つ力を改めて確信した。

語りのテキストはホロコーストを生き延びたサミュエル・ピサールが独自に付けたもの。もともと、バーンスタインがピサールにテキストを依頼していたのだが、「ホロコーストのオペラ化など、考えられない」と辞退していたそうだ。
しかし、9.11の同時多発テロの衝撃を受け、過去の悲劇を繰り返さないという強い信念に基づき、ピサールが改めて語りのテキストを付けたものを、今回インバル指揮、東京都交響楽団および語りと独唱ソプラノ、合唱付きという壮大な演奏で聴くことができた。気迫に溢れた演奏で、まさに名演であった。

ピサールは率直な言葉で、自分の体験した、あまりにも壮絶な記憶からくる神への問いかけ、葛藤を語っていく。ストレートな言葉だけに、胸をえぐられるような苦しみが伝わる。
そして、自分が救われたという奇蹟(自分だけが生き延びたという罪悪感も描かれる)を語り、最後は神への信仰を「新しい約束を!アーメン!」という希望を託す叫びで曲を終える。
もっともっと、この曲が演奏され、平和への連帯を生み出す一つの絆となることを、強く望まずにはいられない。
(この想いのこもったテキストを、記録として残しておきたいが、プログラムには掲載されていないので残念)
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佐藤俊介&鈴木優人の共同企画で「21世紀のコンセール・スピリチュエル」と銘打たれた意欲的なコンサートを、三鷹芸術文化センターで。
コンセール・スピリチュエルの精神~新しいレパートリーと聴衆を開拓し、演奏家達に自由な音楽活動の場を与える~の再現を目指したそうだが、クラシック音楽の世界ではなかなか難しいコンセプト。そのためか、集客に苦戦したのだろう、内容は良かったのに、かなりの空席があったのは残念。

今回の公演は、シェイクスピア『テンペスト』の世界を、音楽劇(ダンス&演奏)に仕立てたもの。
『テンペスト』自体は上演機会が多く、演出も様々で、私もオペラや映画化されたものをはじめ、一年の間に2回違うプロダクションで舞台を観たことも…。
「復讐」から「赦し(人間の行為のなかで最も難しいものの一つだ)」を描いた『テンペスト』をはじめ、シェイクスピアの世界感の大きさは、古今東西どの劇作家よりもずば抜けて高いと思う。そのスケールに匹敵するような世界観を、演奏で創り上げており、センスの良さが光る選曲だった。

この公演の白眉は、なんといってもメシアンの2曲。
《世の終わりの四重奏曲》から「鳥たちの深淵」、クラリネット・ソロ(吉田誠さん)。その特性を最大限に生かしつつ、新たな可能性までも追求したような音の世界。舞台が暗転した中の演奏で、まさに深淵を覗き込む感覚に驚く。そして「イエスの不滅性への賛歌」。これはプロスペローの赦しと対応するもので、ヴァイオリン・ソロの演奏だったが、これを聴いて、なんという曲をメシアンは作るのだろうと、圧倒されてしまった。生と死の境目がどんどん薄くなり、溶け合わさっていく…。

この曲は、メシアンが大戦でドイツ人の捕虜になった際に作曲され、収容所にて初演された。それを知ったとき、心から納得した。やはり、そうした曲だ。メシアンを聴くのは初めてだったが、とても惹かれる。これからも聴いていきたいと思える作曲家に出会えたのは、嬉しいこと。

そして、C.P.Eバッハ!今までCDで聴いても、あまりピンとこない演奏が多かったが、佐藤俊介さん&鈴木優人さんによるヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ、最高だった。
C.P.Eバッハの才気とパッションがビシバシと伝わり、即興性も申し分なく、気分が盛り上がる。楽しかった~、こうした演奏をもっと聴きたい。C.P.E.バッハ・プロを是非!

佐藤俊介さんは、なんとジーンズにソックス!というカジュアルさ(演奏は期待通り見事)。他のメンバーも軽快な身のこなしで、《テンペスト》の世界を体全体で表現していた。
ヴィヴァルディからモラヴェック、メシアンまでとバラエティに富んだ内容、シリーズの第2弾も期待している。
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