カテゴリ:コンサート( 44 )

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 今月初めにフォーレ四重奏団の演奏を聴き、そのブラームスに感銘を受けCDを求めてきた(サインまで…)。
 そのブラームスのCDを改めて聴いているところだが、自分の捉えた印象が「あれ(感想を載せている)」では甘かったなぁと。その演奏は、現在のクラシック演奏の、まさに最前線ぶっちぎりではないだろうか。どうしても演奏のイメージがクルレンツィス(今、最も実際に聴いてみたい指揮者だ)と被ってしまう。外見さえ異なるが、この二つのグループによる演奏を聴いていると、目指す方向は一緒のように思えてならない。

 立花隆さんの『武満徹・音楽創造への旅』に、次の武満さんの言葉がある。
「…規格化によって西洋音楽の音は、生命を失ってしまったんだと思う。西洋音楽の音は、ピュアで、ピッチも正確だけど、日本楽器の音、東洋やアフリカの楽器の音はピュアじゃない。常に余分な音というか、雑音を伴っている。しかしその雑音の部分が独特の響きを生み、音の個性を作っているんですね。そして音楽の生命は、その音の個性にあるんです。そこのところがようやくわかってきたので、音楽の最前衛部分では、楽音の規格化と標準化の流れに抗して、規格化された楽器を規格外の奏法で弾くことによって、音の個性を取り戻そうとしたんです。…つまり、現代音楽における特殊奏法の流行と、古典音楽の復元楽器による演奏の流行とは、全く別物のように見えるかもしれないけれど、実は同じ流れの中で起きた現象だということです。楽器の音に個性を取り戻すことで、音楽の生命を取り戻そうとしたということです」

 フォーレ四重奏団の音は、「歪んで」いる。その歪みは、あるときにはこれ以上はないというほどに、大きくたわみ、震えて、こちらに跳ね返ってくる。でも、確かにブラームスで、そのざらついた手触りからドクドクと脈打つ命の鼓動が、生々しい息吹が伝わってくる。なんて、新しい音の響き…。
 これからさらに演奏がどう進化していくのか、続きが気になる四重奏団であることは間違いないな、と。

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 イタリアのバス歌手、フルラネットのリサイタルへ。
 本人の提案により、ロシア歌曲プログラム、しかもラフマニノフ&ムソルグスキーという滅多にない内容だ。これがロシア歌曲ではなく、もう一方の提案であったという《冬の旅》だったらチケットを求めなかっただろう(《冬の旅》はもちろん名曲中の名曲だが)。ラフマニノフの曲は、私にとっても馴染み深く、ラフマニノフ自身がピアニストだっただけに、素晴らしいピアノ曲がいくつもある。ロシアの薫りを強く感じるコンチェルトはもちろんだが、ピアノ・デュオもいい。ほとんど演奏されないが、交響曲も好きだ。

 しかし、声楽曲は聴いたことがなく、むろんムソルグスキーに至っては《展覧会の絵》しか思い浮かばない…。ラフマニノフの歌曲への好奇心が勝って、今回のコンサートへ駆けつけることとなった。

 プログラムの前半は、ラフマニノフの歌曲から。プログラムを読むと、彼の歌曲はロシア声楽史の最高傑作で、しかも最初期(10代最後)から秀作を連発しているとのこと。もう仰天である。実際聴いてみて、その美しさにまた驚愕し、うっとりと我を忘れてしまうという感覚に陥った。その旋律の甘美なことといったら、もうこの上ない。ロシア語がどうだという前に、すでに旋律がラフマニノフ節全開である。
 愛の歌が中心となっていたが、特に《秘やかな夜の静寂の中で》での夢見るような歌、「愛しい君の名を呼んで、夜の闇を突き破るだろう...」と、最後に高音のピアニッシモでささやくように歌われたフルラネットの声は陶酔感に満ちて、この世のものではないような響き。プログラム終了前だが、観客席からも思わず拍手と「ブラヴォー」の声が飛ぶ。
 フルラネットの声はバスで力強いものだが、高い表現力で、バリトン曲はもちろんソプラノ曲まで柔軟に歌いこなしていた。限りなくロマンチックな曲を、情熱を込めて歌い上げる姿に、やはりイタリア人だなぁと。
 そして、ピアノ(イーゴリ・チェトゥーエフ)も力強い厚みのある音、そしてラフマニノフ特有の華麗さが存分に伝わるもので、息もぴったり。

 プログラム後半は、ムソルグスキー。なんといっても歌曲集《死の歌と踊り》が圧巻。プログラム前半が生の喜びだったのとは反対に、死の勝利に。バスの底力がここぞとばかりに迫ってきて、その凄みといったら、まさにフルラネットの真骨頂。なんという異色の歌曲だろうか、ロシア歌曲の金字塔とのことだが、それも納得。死の勝利を謳い上げた、めまいのするようなドラマが展開され、ただただ圧倒されるばかり…。

 アンコールがまた、にくい選曲だ。ラフマニノフの歌劇《アレコ》からカヴァティーナに、アントン・ルビンシテインの歌劇《デーモン》からアリア。
 たぶん、一生舞台で観ることのできないオペラな気がする…(《アレコ》はLDで観たけれど)。

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 ドイツ本国でも人気があるというフォーレ四重奏団、その評判を聞き、今回の公演ではブラームス(私の最も愛する作曲家だ)を取り上げるということで、トッパンホールへ。
 ブラームスの作品の中では、やはり室内楽が彼の真価を最もよく伝えてくれると思う。そう、親密な空間で、すぐ隣にブラームスが居て、密かに心情をささやいてくれるような…。

 期待が高まる中、まずはモーツァルトのピアノ四重奏曲第2番K493から。ピアノの鈴を転がすような、くっきりとした美音が素晴らしい。モーツァルトはこうした音でないと、生き生きとした彼らしい煌めきが出ない。ピアニストにとって、モーツァルトが難しい理由の一つだが、ここは完璧にクリア。ああ、こんな風にモーツァルトを弾きたい...。
 それに対して、弦はちょっと重いように感じる。どうしてもピアノの音が勝ってしまう印象だったが、この弦の重みがあれば、ブラームスはいいだろうという予感が...。

 そして細川俊夫《レテ(忘却)の水》、フォーレ四重奏団に捧げられている。題名が秀逸。現代曲によく見られる様々な奏法を駆使するのではなく、四重奏団という切り詰められた素材をストレートに用いて、意識の下へ下へと降りていく、悲しくなるほど静謐で美しい音の流れだった。
 レテの水を飲み、現世の深い悲しみを忘れるということは、深く愛した人のことも忘れてしまうということだ。それでも、皆、進んでレテの水を飲むのだろうか?生まれ変わるために、それが必要ならば、それもまた悲しい。輪廻転生は、いつか断つことができるのだろうか、と様々な想いに捉われる、深い体験を与えてくれた。

 深い余韻を残しつつ、休憩後はいよいよブラームスのピアノ四重奏曲第2番Op.26。これがもう、凄い演奏で、こちらも忘我の境地に。
 ブラームスというと、とかく渋さ(重厚)を出し、曲の構成から古典主義的アプローチの演奏が多いように思えるが、この曲は20代の、青春真っ只中に作られたものだ。同じく若書きのピアノ三重奏曲も大好きなのだが、若さゆえの感情と情熱のほとばしりが加わった、むせ返るようなロマンの薫りが、そこにはある。それを感じさせてくる演奏に出会ったのは、初めてといってもいいかもしれない。ブラームスの一般的な印象を覆してくれるような演奏に、感無量。
 ブラームスの民族音楽的な部分を、強く感じさせてくれるのも嬉しかった。故郷のハンブルクでは、よくこうした音楽を演奏していたのだろうと連想させられる。…ハンブルクに行けば、もっとブラームスに近づけるのかも、とまた思ってしまった。
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 ヴェネツィア…。それは今も昔も人々の憧れを掻き立ててやまない、煌めく水の都だ。幻想的な美しさに満ちた「アドリア海の真珠」から生み出されたバロック時代の音楽は、ヴェネツィアというイメージにふさわしい、艶やかさと煌めきを持ち合わせている。でも、ヴェネツィアが持っている世界というのは、それだけではないはずだ。須賀敦子さんのエッセイにもあるように、ヴェネツィアは演劇性と虚構とが入り混じった、そう、仮面こそがふさわしいカーニバルの町でもあるのだ…。
 
 ベルリン古楽アカデミーによるヴェネツィア・バロック・プログラムは、まるでカーニバルのように、様々に移り変わるその仮面を次から次へと鮮やかに見せてくれ、魅力的だった。
 ヴィヴァルディ《弦楽のための協奏曲》で見せてくれたのは、まさに水面にまぶしくきらめくヴェネツィア。その輝きに、うっとりと身を任せれば、現実を忘れてしまう…。
 カルダーラ《我らの主、イエスの受難》では、宗教心の篤い、信心深いヴェネツィアが顔を出す。ここでの重厚さ、対位法が際立つ曲においての表現力は、さすがのアンサンブルだと思わされる。
 アルビノーニの抒情性は、さながらゴンドラに揺られながら運河を進むような心持ち…。マルチェッロの哀愁は霧にかすむ幻想の中のヴェネツィアだ…。
 そして、アンコールのヴィヴァルディのチャッコーナ!ジャズ風アレンジで、さながらカーニバルのクライマックス、どんどん熱を帯びていき、まるで人々が踊りまくるような熱狂の渦の中で幕が閉じられた。これには驚き、観客も皆大喜び。アンコールを含め、なんともモダンなヴィヴァルディを聴かせてくれて、このアンサンブルにしか出せない色合いだろう。通奏低音がガッチリと機能しているのが(バロックでの要だ)、私の好みなので、そこがバツグンなのは嬉しい。
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 今回の来日プログラム1回目は、J.S.バッハとC.P.E.バッハを交互に組み合わせたもの。加えてモーツァルトもあり(J.S.バッハ平均律の編曲)、私にとっては最高のプログラム。演奏機会の少ないC.P.E.バッハが真打ちということで、期待に胸膨らませていた。今年初めに聴いたC.P.E.バッハのチェンバロ&ヴァイオリンのソナタも、なんともギャラントで素敵だったなぁと…。

 そして、よくぞ、C.P.E.バッハをやってくれた!と心の中で喝采を叫んでしまうほど、期待通りの「ベルリンのバッハ」だった。オーボエ協奏曲に、《6つのシンフォニア》第5番&2番と計3曲。さすが力を入れているだけあって、溌剌として、生気に溢れたC.P.E.バッハ。その魅力が存分に伝わってくる演奏で、楽しかった。ここでのアンサンブルの見事さは言わずもがな。
 ハイドンは自分の師といえるのは彼だけだったと公言していたそうだが、影響は明らかだ。特に《6つのシンフォニア》は斬新。機知に富んだ、こちらをハッとさせるような意外性のある展開で、人を楽しませてくれる。才気溢れるといった感じ。また、甘やかな緩楽章の美しいこと…。

 そう、エマヌエル(C.P.E.バッハ)の音楽は、父とはあまりにも違い過ぎる。様式の違いはもちろんだが、もう、音楽というものの意味が根本から異なってしまっていることが伝わってくる。時代は変わったのだ、親を乗り越えたのか、もしくは否定したのか…。
 当代一の人気を誇ったエマヌエルも、時代が進むと手厳しい評価に晒され、父が世間から忘れ去られたように、自らも同じ道をたどることになる。時代によって、評価が様々に変化していくことを実感させられる…。父の音楽は、今や揺るぎない地位を確立しているが、息子の音楽も(フリーデマンやクリスティアンも含めて)再評価がさらに進んで、また実演に接する機会を楽しみにしたい。
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バーンスタインによる死者のための祈り《カディッシュ》を聴いて、胸中は様々な想いで溢れているのに、それをどう表現してよいのか分からないでいる。何かを語ろうとしても、ホロコースト~人類最大の悪という現実、そして、なぜこれを見過ごしたのかという神への問いかけの前には、どんな言葉を連ねても、あまりにも軽薄にすぎるように思える。
しかし、これだけはーこの曲は、今、この時代にこそ、聴かれるべき音楽であることは間違いないー
音楽によって普遍的なメッセージを、人種と宗教を超えて平和と民主主義を願う人々へ、強く呼びかけることが可能なのだと、音楽の持つ力を改めて確信した。

語りのテキストはホロコーストを生き延びたサミュエル・ピサールが独自に付けたもの。もともと、バーンスタインがピサールにテキストを依頼していたのだが、「ホロコーストのオペラ化など、考えられない」と辞退していたそうだ。
しかし、9.11の同時多発テロの衝撃を受け、過去の悲劇を繰り返さないという強い信念に基づき、ピサールが改めて語りのテキストを付けたものを、今回インバル指揮、東京都交響楽団および語りと独唱ソプラノ、合唱付きという壮大な演奏で聴くことができた。気迫に溢れた演奏で、まさに名演であった。

ピサールは率直な言葉で、自分の体験した、あまりにも壮絶な記憶からくる神への問いかけ、葛藤を語っていく。ストレートな言葉だけに、胸をえぐられるような苦しみが伝わる。
そして、自分が救われたという奇蹟(自分だけが生き延びたという罪悪感も描かれる)を語り、最後は神への信仰を「新しい約束を!アーメン!」という希望を託す叫びで曲を終える。
もっともっと、この曲が演奏され、平和への連帯を生み出す一つの絆となることを、強く望まずにはいられない。
(この想いのこもったテキストを、記録として残しておきたいが、プログラムには掲載されていないので残念)
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佐藤俊介&鈴木優人の共同企画で「21世紀のコンセール・スピリチュエル」と銘打たれた意欲的なコンサートを、三鷹芸術文化センターで。
コンセール・スピリチュエルの精神~新しいレパートリーと聴衆を開拓し、演奏家達に自由な音楽活動の場を与える~の再現を目指したそうだが、クラシック音楽の世界ではなかなか難しいコンセプト。そのためか、集客に苦戦したのだろう、内容は良かったのに、かなりの空席があったのは残念。

今回の公演は、シェイクスピア『テンペスト』の世界を、音楽劇(ダンス&演奏)に仕立てたもの。
『テンペスト』自体は上演機会が多く、演出も様々で、私もオペラや映画化されたものをはじめ、一年の間に2回違うプロダクションで舞台を観たことも…。
「復讐」から「赦し(人間の行為のなかで最も難しいものの一つだ)」を描いた『テンペスト』をはじめ、シェイクスピアの世界感の大きさは、古今東西どの劇作家よりもずば抜けて高いと思う。そのスケールに匹敵するような世界観を、演奏で創り上げており、センスの良さが光る選曲だった。

この公演の白眉は、なんといってもメシアンの2曲。
《世の終わりの四重奏曲》から「鳥たちの深淵」、クラリネット・ソロ(吉田誠さん)。その特性を最大限に生かしつつ、新たな可能性までも追求したような音の世界。舞台が暗転した中の演奏で、まさに深淵を覗き込む感覚に驚く。そして「イエスの不滅性への賛歌」。これはプロスペローの赦しと対応するもので、ヴァイオリン・ソロの演奏だったが、これを聴いて、なんという曲をメシアンは作るのだろうと、圧倒されてしまった。生と死の境目がどんどん薄くなり、溶け合わさっていく…。

この曲は、メシアンが大戦でドイツ人の捕虜になった際に作曲され、収容所にて初演された。それを知ったとき、心から納得した。やはり、そうした曲だ。メシアンを聴くのは初めてだったが、とても惹かれる。これからも聴いていきたいと思える作曲家に出会えたのは、嬉しいこと。

そして、C.P.Eバッハ!今までCDで聴いても、あまりピンとこない演奏が多かったが、佐藤俊介さん&鈴木優人さんによるヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ、最高だった。
C.P.Eバッハの才気とパッションがビシバシと伝わり、即興性も申し分なく、気分が盛り上がる。楽しかった~、こうした演奏をもっと聴きたい。C.P.E.バッハ・プロを是非!

佐藤俊介さんは、なんとジーンズにソックス!というカジュアルさ(演奏は期待通り見事)。他のメンバーも軽快な身のこなしで、《テンペスト》の世界を体全体で表現していた。
ヴィヴァルディからモラヴェック、メシアンまでとバラエティに富んだ内容、シリーズの第2弾も期待している。
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それは、聴いていると、まさにラファエル前派の絵画たちが浮かび上がってくるような世界…。シェイクスピアの時代に活躍した作曲家、ダウランドやロバート・ジョンソンを始めとした歌曲リサイタルへ。
イギリス・ルネサンスの最盛期、シェイクスピアに代表される文学(演劇)に付随するように、音楽も見事な成果を残している。その代表が、ダウランドによるリュート伴奏付きの歌曲だ。リュートは、ルネサンスを代表する楽器の一つであり、絵画にもよく描かれているので、「ああ、あれか」と思う方も多いだろう。
私はリュートの、そのなんともいえない哀愁を帯びた音色にとても惹かれる。特にヴァイスの曲がお気に入り。

今回のプログラム、まずはシェイクスピアが所属した劇団の「座付き音楽家」である、ロバート・ジョンソンの歌曲から。R・ジョンソンは、シェイクスピアの戯曲にオリジナル曲を付けており、以前、シンベリンやテンペストに付けられた曲を聴いた覚えがあるなと…。
ここまでは、いかにも調和的なルネサンス歌曲の雰囲気だったのだが、ダウランドに移り変わると、開始のリュート・ソロから、一気にダウランドのラクリメ(涙)の世界へ。曲自体も、哀愁から憂鬱、最後はラクリメ(涙)に満ちていく…。

デイヴィスの歌唱を聴いて、今まで抱いていたダウランドのイメージが随分と変わった。いくらラクリメとはいっても、そこは「ルネサンス」という時代の中での表現と思っていた。だが、さすがバロックの歌い手である。
テキストの読み込みの深さからくる表現力の確かさによって、ダウランドがまさにルネサンス後期の作曲家で、バロックへの橋渡しをしているということが、まざまざと伝わってきた。

当たり前だが、時代は続いている。ルネサンスはバロックと繋がっているのだ。もちろんその後も…、そう、現代まで。それを実証したのが、最後のダウランドに続けて演奏された、エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・へヴン」。なんの違和感もなく、400年前の音楽と現代の音楽が繋がり、私達の心にも熱いラクリメが流れ落ちる…。

その完成されたプログラムと、まさに歌唱と一体化していたリュート演奏にも、ブラボー!
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今年の第一弾目の演奏会が、こんなにも感動してしまうものになるとは思わなかった。
聴いている途中から、目頭が熱くなるのを感じ、久々に胸が一杯に。この余韻はしばらく続きそうだ。

「晩年のヘンデル」がテーマとなった、今年のヘンデル・フェスティバル・ジャパンの演奏曲はオラトリオ《イェフタ》。ヘンデルが視力を失いつつある中で作曲されたもので、実質的には最後の舞台作品だ。
作曲家に限らず、芸術家の人生の有様と、作品自体は切り離して考えるべきだとは分かっているが、ヘンデルの最後に辿りついた終着点は確かにここにあるということを感じて、胸が熱くなった。

ヘンデルは本質的にはオペラ作曲家で、若き日よりその輝かしいオペラ作品の数々で名を馳せてきた。私はヘンデルのオペラが好きだ。
まさにバロックの精神を体現したような、カストラートの超絶とした声が君臨し、現実を飛び越えて魔法の世界までも鮮やかに作り出し、そして男女の機微を細やかに、艶めかしく表現し、聴くものをこの世のものとも思えぬ陶然の境地へ連れて行ってくれる、ヘンデルのオペラの数々…。
ヘンデルの人生は、そうした自身の作品を上演するための、世間との闘いの連続でもあった。そして最後まで、劇場での上演に命を掛けていたように思える。

この最後の作品を聴きながら、彼の作り出してきた過去の華々しいオペラからオペラ自体の衰退、そしてオラトリオへの転向、ここに至るまでの流れを、その闘いの人生を想い起こさずにはいられなかった。
時の無情な流れには逆らえないけれども、それでも「最後の仕事」の見事な成果を聴くことができたことは、本当に良かった。
この宗教的な深みのある音楽ー《ああ、主よ、御胸の何と幽庵なことか!人間の目には覆い隠されている!我々の歓びはことごとく悲しみに転じ、我々の勝利は悲嘆に変わるー夜が日に取って代わると。確実な喜びは無く、確固たる平和もないー我々人間の知るところでは、この地上では。…》(2幕合唱)
この境地は、晩年だからこそ可能な表現なのだろう。この作品が最後となったことを、本人は悔いてはいないはずだ。

もっと自分が年を経れば、ヘンデルのオペラよりもオラトリオに惹かれるようになってくるのかもしれない…。

★演奏は真摯なもので、この日のために修練を重ねてきたことがうかがえる見事なものでした。一回きりとは本当にもったいない限り。
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年末の片づけ、大掃除を2日かけて夫婦で行い、新年の準備を整えた後、紅白&第九を見ながら年越し蕎麦(今年は天ざる。天ぷらは毎年すぐ近くの実家よりおすそ分け)をいただいて、落ち着いたところ。
あとは、今年の鑑賞生活のまとめを少し。

今年はオーケストラの演奏会が多かった。普段、オーケストラの演奏会にはまず行かないのだが、友人に譲ってもらった1月都響の現代音楽プログラム、日本初演のシュネーベルとカーゲルの作品が素晴らしかった。特にシュネーベル《シューベルト・ファンタジー》では、「今、クラシック音楽を聴くとは、どういうことなのか」=クラシック音楽を聴く「私」とは何なのだろう、と、音楽を聴くという体験そのものを捉えなおすような試みが感じられ、とても刺激的だったー「過去の音楽作品を今日の体験から新しく聴くことができる…音楽が価値ある真に生きたものとして、いかに現代に伝えられるかという受容そのものが問題なのである(プログラムより)」ー。

こうした、新鮮な体験を与えてくれる、目から鱗のような作品を聴きたいなぁ、とそれからは在京オケによるサーリアホのオペラ&クラリネット協奏曲、アダムズ、藤倉大など「日本初演」の曲が多くなってしまった。新しい音楽に身を浸すことで得られる感覚があり、面白い体験でもあるので、来年もこの傾向が続く予感…。

また、久し振りに海外遠征ができたのは、本当にありがたいこと(気軽にはできないことだと思っている、家族&職場に感謝)。
シュターツカペレ・ベルリン&アルゲリッチにドレスデン・ゼンパーオーパー(シュターツカペレ・ドレスデン)、ベルリン・フィルハーモニーと聴いた。
ベルリンフィルの公演については、感想など書きたいのだが(今日は時間が無くて…)。好きなコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を実際にベルリンフィル&ギル・シャハムで聴けたこと、これまた好きなシュミットの《ノートルダム(インテルメッツォ)》も聴けたのは、嬉しかった。シュミットの歌劇《ノートルダム》、音楽的にドラマチックで惹きこまれる、とてもいい作品だと思う。いつか舞台で観たいものの一つだ(でも、日本ではまず聴けないだろう…)。
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