カテゴリ:opera( 53 )

 公演からあっという間に一週間以上が過ぎ、再び仕事漬けの日々だが、記憶が薄れないうちに感想を。
e0036980_22381424.jpg
 演奏はスカラ座古楽オーケストラ&指揮のファソリス率いるイ・バロッキスティ(スイス)の混合オーケストラで、事前予想がつかず…。
 イ・バロッキスティ、CDでは聴いていたものの、実際に聴くのは初めて。ファソリスの指揮はダイナミックで、キビキビとした流れを作り出し、躍動感があった。そこはさすがにバロックらしい演奏(一安心)。が、バロックは、ともすると一本調子になりがち。ヘンデルのように長い作品では、聴かせどころ(ツボ)を押さえて、ドラマを盛り上げながら聴かせてほしいなと。
 いくつかのハイライトシーンがあるが、好きな場面の一つがアステリアの毒杯の場面。父と恋人のどちらかを選んで飲ませよという命を受け、心引き裂かれるアステリアに、思わずこちらも胸が締め付けられ、その悲壮な美しさに目が潤んでしまう。アリアではなくアッコンパニャートだが、こうした絵になる場面は、演出的にも、音楽的にもたっぷりと魅せてほしかった(アリアの場面だけ派手に演出を盛り上げても、ドラマを盛り上げることにはならない)。もちろんバヤゼットの死の場面は、この作品のクライマックスでもあり、ドミンゴの名演で素晴らしかったが。
e0036980_22425029.jpg
 実際のタイトルロールともいえるバヤゼット役はドミンゴ。高度な技巧が求められるアリアも多く、歌唱的にはかなり厳しいものになるだろうと危惧していたが、それ以外では深みのある声がドラマに重厚さと説得力を加え、さすがの歌役者ぶり。いまだ健在であることが十分に伝わってきた(映像ではさんざん観てきているのに、実際に聴くのは初めて。ミーハー的に嬉しかった)。
 そしてヒロインのアステリアを歌ったマリア・グラツィア・スキアーヴォ、素晴らしかった!美声にムラがなく、安定した歌唱で、しっかりとドラマの中核を担っており、舞台に大きく貢献していたと思う。残虐なタメルラーノ役のベジュン・メータ、開演前に体調不良のアナウンスが流れたが、それを感じさせない見事な歌いっぷりに、さすがプロだと感心。芯の通ったクリアな美声には目が醒めるよう。
e0036980_23535674.jpg
 悩める王子、アンドローニコ役のフランコ・ファジョーリだが、アンドローニコだと彼の持ち味が十二分に発揮できなかったのかもしれない。第一幕と第二幕は声が曇り気味(不調だったのかも)で、ようやく第三幕になってから、まろやかな声と華やかな技巧捌きが冴えてきた感じ。来年に日本で聴くのを楽しみにしたい。
 そして私のお気に入りであるイレーネ(プライドが高いけれど、情にもろくて思い込んだら一直線)を歌うのは、マリアンヌ・クレバッサ。当日まで彼女が歌うとは知らなかった…。イレーネのアリアは大好きなのに、劇場で配役表を確認して「あら、そうだったの」と。コントラルト的な深い声は、イレーネにぴったりだったが、彼女の時だけオーケストラの調性が突然変わってしまうというか、違和感があり集中できず…。舞台姿はまるでパリ・コレのモデルのように綺麗で見とれてしまった。

 私にとっては十分にヘンデルを満喫した舞台だったけれど、第ニ幕を終えた時点で会場を後にする観客も多かったように思う。開始時には空席は目立たなかったものの、第三幕の開始時には私の前席の2名、並び席の3名は姿が見えなくなっていた。観光客で退屈になったのかどうなのかは分からないけれど…。カーテンコールでの反応は悪くなかったが、熱狂的というほどではなく…。開演は20時で、終演は日を超えて0時30分頃。スカラ座からすぐの宿で良かったと。そんな時間になっても、キャストの出待ちをしているファンが多くて、私もと一瞬思ったけれど、さすがに疲れ果てていたので、あっさりと宿に戻ってしまった。

[PR]
 なんといっても序曲からペトレンコの指揮によるオーケストラ演奏が素晴らしく、先週のスカラ座の余韻が吹き飛んでしまうほど見応えのある舞台だった。
 オーケストラ、歌手ともにペトレンコのペースに付いていくのが大変そうな箇所も見受けられたが、この方は自分の作りたい音楽がかなりクリアなのだろうと。
 ヴェーヌスベルク(快楽の園)の音楽の鋭さと対比するように、ヴァルトブルクの場面では歌心に溢れた流麗さがあり、その緻密で滑らかな美しさに、ちょっとワーグナーではないみたいだ(今まで接してきたワーグナーとは違う)と感じたり…。
 私は《タンホイザー》の音楽には共感できるものの、台本には正直言って古さを感じるというか、そのドラマに共感できない。その認識を覆してくれるような演出に出会えることがあればと思っているが、ともかく、日本に居ながらにして、ここまで指揮、歌手、オーケストラと高レベルで揃い踏みした公演に接することができるとは、なんと幸せなことだろうか。
 
 この日本に居ながらにして…、つまり引っ越し公演について会場で配布されているNBSニュースに記事があり、一応オペラ愛好家(年に数えるほどしか行かないので、そう名乗るのは気が引けるが)としては興味深く読んだ。
 一般的にオペラがハイカルチャーであるという意識は、日本だけではなく、観客の高齢化もまた同様だろう。しかし、クラシック音楽と同様に、オペラの生命力には凄いものがある。これだけ人の感情を揺さぶり、美を感じさせるものが、観客の高齢化とはいえ、そうそう世の中から消え去るとは思えない。そして、その素晴らしさを皆に知ってほしい、特に若い人に、また聴いてみたいという人にはもっと気軽(もちろん値段も)に体験してもらって、その美しさに感動してほしい、感動をより大勢の方と共有したいという想いはもちろんある、自分ではなかなか具体的な形に出せないのが残念だが…。

[PR]
e0036980_23542644.jpg
 始めて私がヘンデルのオペラ上演に接したのはパリ(シャンゼリゼ劇場)だった。それから10年以上が経ち、こうしてミラノ・スカラ座でヘンデルの上演に接することになろうとは、思いも寄らぬ時の流れ。
 この作品に初めて接したのは10年近く前になるのではないだろうか。ハレで行なわれているヘンデル音楽祭の上演の映像で、ピノック指揮のもの。ヘンデルのこれぞ天才の技ともいえる音楽の迸りに、一目惚れならぬ一聴惚れで、何度聴いても聴き飽きるということがない。台本と歌手に恵まれたオペラ時代のピークに作られ、傑作と言われるのも納得の作品である。
 なんといっても各キャラクターが音楽によって見事に描き分けられているのが素晴らしく、また、従来のスタイルを逸脱するほどの技法を駆使してドラマを創り上げている。そこからは、ヘンデルがいかに説得力をもった人間ドラマを創り上げるかということに主眼を置いていたことがよく伝わってくる。
e0036980_21275083.jpg
 物語は、タタール皇帝タメルラーノと、その捕虜となったトルコ皇帝バヤゼットとその娘アステリアを巡る悲劇。
 演出ではロシア革命に置き換えられていたものの、台本はその時代の定番スタイルに概ね沿ったものであり、どのような演出となっても(ヘンデルの権威であったディーン博士の著書にある「タメルラーノに、最初のアリアの歌い始めに逆立ちさせたり、そのほか考えうる限りの滅茶苦茶をいくつかのアリアに持ち込み、さらにヘンデルがきっぱりと捨てた音楽を元の場所に戻して、第2幕の素晴らしいフィナーレを台無しにしたのである」というような例は、さすがに今では無いと思いたいが)根本的には作品の解釈に影響を与えないように思う。政治的なものより、冷徹な君主に翻弄される恋人達の心情や親子の情愛、誇り高き英雄の嘆きが軸となっているためである。そうした意味では、やはりオペラ(「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」の、つまり商業的な)だな、と。
 ロシア革命の生々しい臨場感はあまり感じられなかったものの、舞台的には大変美しく、衣装もなんとエレガントなこと!スカラ座にはマッチしていた。オーケストラも歌手もバランスが取れており、安定感のあるヘンデルを聴くことができた。

★歌手については、また後日…。

[PR]
e0036980_21345543.jpg
 一昨年、東京オペラシティでの日本初演(演奏会形式)で聴いた現代オペラを、METライブビューイングで。
 よい作品を、再びこうした最高のプロダクションで観ることができるとは嬉しい。METの上演にあたって、オーケストラの規模が以前よりも大きくなったように思える。音楽だけでも、万華鏡のように移り変わるスケールの大きい波動を感じさせるが、それに加えて、LEDライトで表現された幻想的な海の演出がピタリとはまり、体ごと別次元へ吸い込まれるような感覚を覚える。実際に観たらどんなに凄いだろうかと…。METの観客も非常に盛り上がっていて、ここまでの大成功とは、驚いてしまった。

 今回の鑑賞にあたり、日本初演でのプログラムを読み返してみて(解説が素晴らしいものなので)、改めて納得する部分が多く、感慨深い体験となった。「自分を満たす完全なもの(それは美でもあり、純粋なものでもあり、愛でもあり...)」を求めながら得ることが永遠に不可能という、人間としての悲劇を救ってくれるのは、やはり神しかいないのだろうか。それを求める以上、救いは神にしかない。
 こうしたテーマを、大海を想い起させる壮大なサウンドで表現した、指揮のスザンナ・マルッキが驚くほどのダイナミックさで、素晴らしかった。女性作曲家に女性指揮者だったので、あとは演出家も女性であればパーフェクト、というのは余計な話。
 
 サーリアホの他のオペラ《アドリアーナ・マーテル》、《エミリー》も女性が主人公で観てみたいもの。
 2015年初演の《Only the sound remains 》は能がモチーフ。サーリアホには他にも日本をテーマとした曲(庭園?だったような)があった記憶が。カウンターテナーが歌うというのも、今ではかえって現代的。能というのも音楽劇なので、作曲家としては触発される部分が多いだろうなと。

[PR]
e0036980_21101950.jpg
 ベッリーニによるオペラ作品は、ベルカント(美しい声)・オペラとも呼ばれるように、「声の芸術」にたっぷりと浸れる歓びに満ちている。ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バスと各ソリストの名人芸ともいえる声の饗宴が繰り広げられ、流麗でありながらも、イタリアらしい情熱が全面に押し出されたオーケストレーションも本当に魅力的だ。
 私はベッリーニの《ノルマ》と《カプレーティとモンテッキ》(これはヴェネツィアが初演だった)が特に好きなのだが、なかなか日本では上演されないのが残念。しかし、今月はこれらの作品を日本とヴェネツィアで聴けるという、またとない機会だった(が、日本での《カプレーティとモンテッキ》は旅行前の過密スケジュールでどうしても聴けず、無念。これを逃すともう一生、舞台で見れないかも…)。 
e0036980_2316962.jpg
 デヴィーアの声、高音域の煌めきは今なお健在で、目の前にキラキラと金の粉が舞い落ちてくるような感覚になる。年齢を考えると、今このへヴィーな役柄に挑むとは、驚異以外の何物でもない(いや、だからこそ今、と思われているのかもしれないけれど)。舞台姿も信じられないほど美しくて…。
 ベッリーニによる、ソプラノとメゾソプラノの二重唱は、もう息を呑むほどの美しさで、間違いなく聴きどころの一つだが、メゾのロクサーナ・コンスタンティネスクとの相性もぴったりで、若々しいコンスタンティネスク(声はダークで好み)とベテランのデヴィーアによる対比の妙も、十分に魅せてくれた。(コンスタンティネスクは今年の東京・春・音楽祭で聴いているのだが、あまり記憶が無く…)

 そして素晴らしかったのが、オーケストラ!指揮はダニエーレ・カッレガリ。序曲からベッリーニを聴いたという実感が沸き上がった。躍動感に溢れた堂々たる出だしに、これからの壮絶なドラマを予感させる緊迫感を併せ持っていて、それがいかにも「オペラ」の序曲にふさわしく、中間部分のハープを交えて奏でられるメロディーの甘美なこと…。この甘美な流れにうっとり、天上からのメロディーのように思え、溜息。このメリハリの鮮やかさに、感心しきりだった。
 歌が入ってくると(特にデヴィーア)、そちらに合わせる形になってしまうのは、まあ当たり前だろうが…。なんといってもベルカント・オペラだ。
e0036980_23165275.jpg
 長丁場の作品だが、夢中で聴いているうちに、あっという間に終了してしまったような感覚。華やかな劇場とともに、忘れられない一夜となった。
 劇場を後にする際に、近くにいた方に感想を聞かれ「デヴィーアは素晴らしい」と口にしたところ、「そうだね」と盛り上がり、傍にいたイタリアマダムが(私は英語がしゃべれないとおっしゃっていたが)、うなづいて「ブラヴィッシマ(...だったと思う)」と言っていたのが、印象に残っている。国や言葉は違っても、こうして分かち合える感動がここにあることが、また嬉しかった。
[PR]
e0036980_22274030.jpg
ギリシャ悲劇を基とし、母殺しというおぞましいタブーを描いたオペラ《エレクトラ》。
この作品が持つ破壊力は、初演から100年経ってもなお健在だ。「愛は殺すのよ、愛を知らなければ死ぬことも無い…」と、エレクトラが叫ぶように、柔な常識的意識を吹き飛ばし、善悪の彼岸を仰ぎ見るような感覚を引き起こす。
その主題に沿うように、ホフマンスタールによる台詞は、生理的嫌悪をもよおすような比喩に満ち、R・シュトラウスの切り裂くような音楽が迫ってくる。ここまで生々しい「身体=ボティ」というものを感じさせるオペラは、滅多にない。そう、肉親というのは、何よりもます「身体(血)」を通じて繋がっているものだ。ホフマンスタールの感覚は正しい…。

復讐を果たしたエレクトラはいう、「幸福という重荷を背負ったものにふさわしいのは、黙って、踊ること!」。そして、クライマックス。エレクトラの中から湧き出した歓喜の舞踊の音楽が流れる。しかし踊ろうとしても、糸の切れかけた操り人形のようにぎくしゃくとして、体がいうことをきかない。そのことに愕然とするエレクトラ。その脇を、母を殺めたオレストが廃人のように通り過ぎていく…。
シェローの演出は、閉ざされた無機質な空間の中で展開され、息苦しくなるほどの圧力で、緊迫するドラマを造りあげていた。

そして、私にとってのお目当てはサロネンの指揮。
昨年、フィンランドのテロ・サーリネン・カンパニーによるダンス公演を観たが、曲は全てサロネンによるもので、これが良かった!
《フォーリン・ボディーズ》をはじめ3曲。この曲名からも分かるように、サロネンも身体から生まれる「ダンス」というものに意識的なのだろう。こうした曲を作る指揮者が、どう《エレクトラ》を表現するのかなと…。この作品自体の迫力と凄みは、十分すぎるほど伝わってきたが、ごちゃごちゃした印象にならず、すっきりとした鋭さ、そして洗練された響き。R・シュトラウス独特の美感も保たれている。
生の舞台で、こうした《エレクトラ》を聴けたらな、と思う。
[PR]
観終えた後に「ああ、もう一度観たいな…。」と思わせてくれるオペラに出会える機会はそう多くはない。今回、そう思える作品に出会えたことを喜びたい。
これまで、ヤナーチェクはフォークトで聴いた《霧の中で》ぐらいしか(10年前!)覚えがなく、オペラは初めての経験。今までその音楽を積極的に聴こうと思ってこなかったが、友人の勧めもあり、今回接することができて本当に良かった。
正直言って、1幕目は「どこにでもあるような話…、音楽も垢抜けない…」という印象だったのだが、ドラマが動き始める2幕に入ってくると、その悲劇が切実に胸に迫ってきた。
因習が支配する、閉鎖的な村社会で、婚前の過ちから生まれた命を保身のために消し去るという惨い内容だ。家族だからこそ、愛憎も複雑で、より強いものになる。

この《イェヌーファ》は、オペラという名から一般的にイメージされる、華やかで美しい恋愛悲劇や、誇り高い英雄の活躍からは、とても遠い位置にある。そこに描かれているのは、人間の弱さや脆さ、愚かさであり、生きるということの思い通りにならぬ人生の複雑さだ。
世界は残酷で、痛みに満ちているという現実を、真正面から突き付けてくる。こうした題材で、オペラを創り上げるというのは、作曲家としては勇気がいることではなかったかと思う。

登場人物をこれほどまでに身近に感じることのできるのも、人間のどうにもならない脆さと愛を描いているからだろう。ラツァも、コステルニチカも、シュテヴァも、そしてイェヌーファも、私であり、あなたでもある…。

この現実の痛みを救う光となるのは、やはり信仰なのだろうか。
ヤナーチェクが描いた、イェヌーファによる神への祈りは、痛みを包み込むように、たとえようもなく暖かく柔らかいものだった。ここまで宗教性の高い作品だとは思わなかったが、この救い(赦し)が、オペラをストーリー的にも音楽的にも素晴らしいものにしているのだろう。
ヤナーチェクの音楽は、後期ロマン派の薫りも漂う、大変聴きやすいもの。演奏にもうすこしメリハリがあってもよいのかもしれないが、音楽を味わうのには十分であったと思う。

演出をするうえでは、いろいろとコンセプトがあったのだろうが、あまり気にならない部分が多く、ドラマの進行を妨げないシンプルな方向だった。
このオペラは、すでに高い現代性を持ち合わせているので、作品が伝えようとしているものに、異なる視点を求めるような過剰な演出は必要ないだろう。
[PR]
e0036980_013912.jpg
この歌劇は、なんといっても甘美な旋律のアリア『あなたの御声にわが心は開く』があることで知られているが、上演機会は少なく、私も全曲を聴くのは今回が初めて。
サン=サーンスの曲自体も、今までほとんど接したことがなく、私にとってその名はラモー全集を監修、出版したという印象の方が強い(第1巻がクラヴサンの全作品で、私も何曲かピアノで弾いたが、装飾音が大変で…。ほか、ラモーのカンタータのサン=サーンス版を見た記憶がある)。
その程度の認識だったのが、昨年ベルリン・フィルでサン=サーンスの交響曲3番を聴く機会があり、予習でCDを聴いてみると、いい曲ではないか…と繰り返し曲を流して、オルガンの音色に浸っていたことも。

同時代のフランス・オペラ、ビゼーやマスネも好きなので、今回の公演は滅多にない機会だと思い、劇場へ。
第1幕の始まりから、交響曲3番を彷彿とさせるような味わいで、「これがサン=サーンス節かな」と感じていたが、ヘブライ人の合唱など宗教的色合いの濃さに、これはオペラではなくオラトリオではないか…、この流れでいくのだろうか、と思ったものの、妖艶なデリラが登場した後からは、オペラの色合いに。「スタイルの混乱」と見る向きもあるのは分かる気がする。
オーケストラと歌手はどんどん調子を上げていき、熱気あふれる演奏で、大変聴きごたえがあった(特に3幕は素晴らしかった)。が、私自身が作品自体にあまりオリジナリティを感じない…、有名なアリアや派手な場面はあるけれど、どこかで聴いたことのあるような旋律が続いていくような印象を持ってしまった。
でも、本当に意欲的な公演。今後も上演機会の少ない作品を取り上げていただけると、オペラファンとしては嬉しい。

プログラムを読むと、台本はヴォルテールがラモーに与えたものの使用を考えていたようだが(ラモーのオペラデビュー前の作品《サムソン》、音楽は消失しており残念)、結局は別人のものを採用したとのこと。
ラモーとの繋がりを思うと、やはり嵐のシーンなどはお約束なのかなと(打楽器の迫力!)、サン=サーンス自身が自国のオペラ(フランス・オペラ)ということを意識していたようにも思える。
しかし、ワーグナーの呪縛から逃れるにはやはり難しいなと…。マスネも「マドモアゼル・ワーグナー」であったなと。
[PR]
e0036980_2253819.jpg
今シーズン初めてのMETライブビューイングへ。
私がオペラというものに初めて触れ、「オペラって凄いんだ」とそれこそ目から鱗の体験をしたのが、ワーグナー《タンホイザー》でした。
TVで放映された来日公演(ベルリン国立歌劇場だったでしょうか?記憶はさだかではないのですが)を偶然観たのですが、初めの序曲からバッカナールへ続く音楽、そしてモダンな演出の組み合わせに、「世の中にはこうしたものがあるんだ」と衝撃を受けたのを覚えています。
音楽ももちろんですが、視覚=演出の力でこんなにもスケールの大きい世界、神話的な世界をも具体的に立ち上げることができるのだと(しかも現代性を持って)、圧倒されてしまったのです。
それまで、オペラというものはゴテゴテとした衣装を着けた歌手たちが、不自然とも言える声を張り上げて、話の内容も親近感が湧かないものと思い込んでいたので、余計に驚いたのかもしれません。

そんな想い出のある《タンホイザー》、全幕通して観るのは本当に久し振りで、懐かしささえ感じてしまいます。
ドイツ本国では(ドイツだからこそ)ありえないような、極めてオーソドックスな演出ですが、今となっては返って貴重かもと思ってしまいます。衣装の重厚さ、華やかさはさすがMET。
しかし、この演出のオーソドックスさだと、話の「古さ」も際立ちますね。もちろん当時は「先端」であったでしょうが、現代性を持たせるには、どうしても演出の力が必要になってくるのかもしれません。
そうした意味では、ドレスデンで観たワーグナーはとても良かった。

今回は、なんといってもヴォルフラム役のマッテイが素晴らしい。艶やかなビロードのような声にうっとり。発音も母音と子音がきっちり立って聴こえてきて気持ちが良いなと。
清潔感溢れる雰囲気で、役どころにはぴったりでしたが、ドン・ジョヴァンニも十八番とのこと、どう演じるのか(変わるのか)なと興味を惹かれてしまいます。舞台人としての華(セクシーさ)があるのも、大事なこと。
初めて聴きましたが、ドイツ・リート、バッハなども是非聴いてみたいと思わせる美声でした。
[PR]
メジャーな海外オペラハウスの引っ越し公演を観るのは、ずいぶんと久し振り。好きな作品、好きな歌い手ともなれば(だから観に行くわけですが…)、いやがおうにも期待が高まります。
この演出は、すでに英国ロイヤル・オペラハウス中継上映で鑑賞済みでしたが、キャストが違うと印象も当然ですが変わってきます(当たり前ですが、本国での上演の方がやはり精度は高い)。
最後の地獄落ちシーンが賛否両論だと思いますが、「地獄」自体の認識も、日本人である私と、向こう(キリスト教徒)とでは実感としてかなり違いがあるはずなので、なかなか腑に落ちるところまではいかないのが残念。

演奏自体は、やはり世界的なオペラハウス、底力を感じました。
オケでは、内声というのでしょうか、主旋律以外の部分も、まるでスコアを観るようにくっきりと聴こえてくることがあり、その音の組み合わせの妙に、改めてモーツァルトの技法の見事さを感じることができたのは嬉しい収穫でした。「ああ、こんな部分もあったんだ」と感じること多々、新しい発見をさせてくれた明晰な演奏でした。

(明日早いため、なんだか記事が中途半端に…体裁はまた後日に整えます…)
[PR]