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 一昨年、東京オペラシティでの日本初演(演奏会形式)で聴いた現代オペラを、METライブビューイングで。
 よい作品を、再びこうした最高のプロダクションで観ることができるとは嬉しい。METの上演にあたって、オーケストラの規模が以前よりも大きくなったように思える。音楽だけでも、万華鏡のように移り変わるスケールの大きい波動を感じさせるが、それに加えて、LEDライトで表現された幻想的な海の演出がピタリとはまり、体ごと別次元へ吸い込まれるような感覚を覚える。実際に観たらどんなに凄いだろうかと…。METの観客も非常に盛り上がっていて、ここまでの大成功とは、驚いてしまった。

 今回の鑑賞にあたり、日本初演でのプログラムを読み返してみて(解説が素晴らしいものなので)、改めて納得する部分が多く、感慨深い体験となった。「自分を満たす完全なもの(それは美でもあり、純粋なものでもあり、愛でもあり...)」を求めながら得ることが永遠に不可能という、人間としての悲劇を救ってくれるのは、やはり神しかいないのだろうか。それを求める以上、救いは神にしかない。
 こうしたテーマを、大海を想い起させる壮大なサウンドで表現した、指揮のスザンナ・マルッキが驚くほどのダイナミックさで、素晴らしかった。女性作曲家に女性指揮者だったので、あとは演出家も女性であればパーフェクト、というのは余計な話。
 
 サーリアホの他のオペラ《アドリアーナ・マーテル》、《エミリー》も女性が主人公で観てみたいもの。
 2015年初演の《Only the sound remains 》は能がモチーフ。サーリアホには他にも日本をテーマとした曲(庭園?だったような)があった記憶が。カウンターテナーが歌うというのも、今ではかえって現代的。能というのも音楽劇なので、作曲家としては触発される部分が多いだろうなと。

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 ベッリーニによるオペラ作品は、ベルカント(美しい声)・オペラとも呼ばれるように、「声の芸術」にたっぷりと浸れる歓びに満ちている。ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バスと各ソリストの名人芸ともいえる声の饗宴が繰り広げられ、流麗でありながらも、イタリアらしい情熱が全面に押し出されたオーケストレーションも本当に魅力的だ。
 私はベッリーニの《ノルマ》と《カプレーティとモンテッキ》(これはヴェネツィアが初演だった)が特に好きなのだが、なかなか日本では上演されないのが残念。しかし、今月はこれらの作品を日本とヴェネツィアで聴けるという、またとない機会だった(が、日本での《カプレーティとモンテッキ》は旅行前の過密スケジュールでどうしても聴けず、無念。これを逃すともう一生、舞台で見れないかも…)。 
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 デヴィーアの声、高音域の煌めきは今なお健在で、目の前にキラキラと金の粉が舞い落ちてくるような感覚になる。年齢を考えると、今このへヴィーな役柄に挑むとは、驚異以外の何物でもない(いや、だからこそ今、と思われているのかもしれないけれど)。舞台姿も信じられないほど美しくて…。
 ベッリーニによる、ソプラノとメゾソプラノの二重唱は、もう息を呑むほどの美しさで、間違いなく聴きどころの一つだが、メゾのロクサーナ・コンスタンティネスクとの相性もぴったりで、若々しいコンスタンティネスク(声はダークで好み)とベテランのデヴィーアによる対比の妙も、十分に魅せてくれた。(コンスタンティネスクは今年の東京・春・音楽祭で聴いているのだが、あまり記憶が無く…)

 そして素晴らしかったのが、オーケストラ!指揮はダニエーレ・カッレガリ。序曲からベッリーニを聴いたという実感が沸き上がった。躍動感に溢れた堂々たる出だしに、これからの壮絶なドラマを予感させる緊迫感を併せ持っていて、それがいかにも「オペラ」の序曲にふさわしく、中間部分のハープを交えて奏でられるメロディーの甘美なこと…。この甘美な流れにうっとり、天上からのメロディーのように思え、溜息。このメリハリの鮮やかさに、感心しきりだった。
 歌が入ってくると(特にデヴィーア)、そちらに合わせる形になってしまうのは、まあ当たり前だろうが…。なんといってもベルカント・オペラだ。
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 長丁場の作品だが、夢中で聴いているうちに、あっという間に終了してしまったような感覚。華やかな劇場とともに、忘れられない一夜となった。
 劇場を後にする際に、近くにいた方に感想を聞かれ「デヴィーアは素晴らしい」と口にしたところ、「そうだね」と盛り上がり、傍にいたイタリアマダムが(私は英語がしゃべれないとおっしゃっていたが)、うなづいて「ブラヴィッシマ(...だったと思う)」と言っていたのが、印象に残っている。国や言葉は違っても、こうして分かち合える感動がここにあることが、また嬉しかった。
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ギリシャ悲劇を基とし、母殺しというおぞましいタブーを描いたオペラ《エレクトラ》。
この作品が持つ破壊力は、初演から100年経ってもなお健在だ。「愛は殺すのよ、愛を知らなければ死ぬことも無い…」と、エレクトラが叫ぶように、柔な常識的意識を吹き飛ばし、善悪の彼岸を仰ぎ見るような感覚を引き起こす。
その主題に沿うように、ホフマンスタールによる台詞は、生理的嫌悪をもよおすような比喩に満ち、R・シュトラウスの切り裂くような音楽が迫ってくる。ここまで生々しい「身体=ボティ」というものを感じさせるオペラは、滅多にない。そう、肉親というのは、何よりもます「身体(血)」を通じて繋がっているものだ。ホフマンスタールの感覚は正しい…。

復讐を果たしたエレクトラはいう、「幸福という重荷を背負ったものにふさわしいのは、黙って、踊ること!」。そして、クライマックス。エレクトラの中から湧き出した歓喜の舞踊の音楽が流れる。しかし踊ろうとしても、糸の切れかけた操り人形のようにぎくしゃくとして、体がいうことをきかない。そのことに愕然とするエレクトラ。その脇を、母を殺めたオレストが廃人のように通り過ぎていく…。
シェローの演出は、閉ざされた無機質な空間の中で展開され、息苦しくなるほどの圧力で、緊迫するドラマを造りあげていた。

そして、私にとってのお目当てはサロネンの指揮。
昨年、フィンランドのテロ・サーリネン・カンパニーによるダンス公演を観たが、曲は全てサロネンによるもので、これが良かった!
《フォーリン・ボディーズ》をはじめ3曲。この曲名からも分かるように、サロネンも身体から生まれる「ダンス」というものに意識的なのだろう。こうした曲を作る指揮者が、どう《エレクトラ》を表現するのかなと…。この作品自体の迫力と凄みは、十分すぎるほど伝わってきたが、ごちゃごちゃした印象にならず、すっきりとした鋭さ、そして洗練された響き。R・シュトラウス独特の美感も保たれている。
生の舞台で、こうした《エレクトラ》を聴けたらな、と思う。
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観終えた後に「ああ、もう一度観たいな…。」と思わせてくれるオペラに出会える機会はそう多くはない。今回、そう思える作品に出会えたことを喜びたい。
これまで、ヤナーチェクはフォークトで聴いた《霧の中で》ぐらいしか(10年前!)覚えがなく、オペラは初めての経験。今までその音楽を積極的に聴こうと思ってこなかったが、友人の勧めもあり、今回接することができて本当に良かった。
正直言って、1幕目は「どこにでもあるような話…、音楽も垢抜けない…」という印象だったのだが、ドラマが動き始める2幕に入ってくると、その悲劇が切実に胸に迫ってきた。
因習が支配する、閉鎖的な村社会で、婚前の過ちから生まれた命を保身のために消し去るという惨い内容だ。家族だからこそ、愛憎も複雑で、より強いものになる。

この《イェヌーファ》は、オペラという名から一般的にイメージされる、華やかで美しい恋愛悲劇や、誇り高い英雄の活躍からは、とても遠い位置にある。そこに描かれているのは、人間の弱さや脆さ、愚かさであり、生きるということの思い通りにならぬ人生の複雑さだ。
世界は残酷で、痛みに満ちているという現実を、真正面から突き付けてくる。こうした題材で、オペラを創り上げるというのは、作曲家としては勇気がいることではなかったかと思う。

登場人物をこれほどまでに身近に感じることのできるのも、人間のどうにもならない脆さと愛を描いているからだろう。ラツァも、コステルニチカも、シュテヴァも、そしてイェヌーファも、私であり、あなたでもある…。

この現実の痛みを救う光となるのは、やはり信仰なのだろうか。
ヤナーチェクが描いた、イェヌーファによる神への祈りは、痛みを包み込むように、たとえようもなく暖かく柔らかいものだった。ここまで宗教性の高い作品だとは思わなかったが、この救い(赦し)が、オペラをストーリー的にも音楽的にも素晴らしいものにしているのだろう。
ヤナーチェクの音楽は、後期ロマン派の薫りも漂う、大変聴きやすいもの。演奏にもうすこしメリハリがあってもよいのかもしれないが、音楽を味わうのには十分であったと思う。

演出をするうえでは、いろいろとコンセプトがあったのだろうが、あまり気にならない部分が多く、ドラマの進行を妨げないシンプルな方向だった。
このオペラは、すでに高い現代性を持ち合わせているので、作品が伝えようとしているものに、異なる視点を求めるような過剰な演出は必要ないだろう。
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この歌劇は、なんといっても甘美な旋律のアリア『あなたの御声にわが心は開く』があることで知られているが、上演機会は少なく、私も全曲を聴くのは今回が初めて。
サン=サーンスの曲自体も、今までほとんど接したことがなく、私にとってその名はラモー全集を監修、出版したという印象の方が強い(第1巻がクラヴサンの全作品で、私も何曲かピアノで弾いたが、装飾音が大変で…。ほか、ラモーのカンタータのサン=サーンス版を見た記憶がある)。
その程度の認識だったのが、昨年ベルリン・フィルでサン=サーンスの交響曲3番を聴く機会があり、予習でCDを聴いてみると、いい曲ではないか…と繰り返し曲を流して、オルガンの音色に浸っていたことも。

同時代のフランス・オペラ、ビゼーやマスネも好きなので、今回の公演は滅多にない機会だと思い、劇場へ。
第1幕の始まりから、交響曲3番を彷彿とさせるような味わいで、「これがサン=サーンス節かな」と感じていたが、ヘブライ人の合唱など宗教的色合いの濃さに、これはオペラではなくオラトリオではないか…、この流れでいくのだろうか、と思ったものの、妖艶なデリラが登場した後からは、オペラの色合いに。「スタイルの混乱」と見る向きもあるのは分かる気がする。
オーケストラと歌手はどんどん調子を上げていき、熱気あふれる演奏で、大変聴きごたえがあった(特に3幕は素晴らしかった)。が、私自身が作品自体にあまりオリジナリティを感じない…、有名なアリアや派手な場面はあるけれど、どこかで聴いたことのあるような旋律が続いていくような印象を持ってしまった。
でも、本当に意欲的な公演。今後も上演機会の少ない作品を取り上げていただけると、オペラファンとしては嬉しい。

プログラムを読むと、台本はヴォルテールがラモーに与えたものの使用を考えていたようだが(ラモーのオペラデビュー前の作品《サムソン》、音楽は消失しており残念)、結局は別人のものを採用したとのこと。
ラモーとの繋がりを思うと、やはり嵐のシーンなどはお約束なのかなと(打楽器の迫力!)、サン=サーンス自身が自国のオペラ(フランス・オペラ)ということを意識していたようにも思える。
しかし、ワーグナーの呪縛から逃れるにはやはり難しいなと…。マスネも「マドモアゼル・ワーグナー」であったなと。
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今シーズン初めてのMETライブビューイングへ。
私がオペラというものに初めて触れ、「オペラって凄いんだ」とそれこそ目から鱗の体験をしたのが、ワーグナー《タンホイザー》でした。
TVで放映された来日公演(ベルリン国立歌劇場だったでしょうか?記憶はさだかではないのですが)を偶然観たのですが、初めの序曲からバッカナールへ続く音楽、そしてモダンな演出の組み合わせに、「世の中にはこうしたものがあるんだ」と衝撃を受けたのを覚えています。
音楽ももちろんですが、視覚=演出の力でこんなにもスケールの大きい世界、神話的な世界をも具体的に立ち上げることができるのだと(しかも現代性を持って)、圧倒されてしまったのです。
それまで、オペラというものはゴテゴテとした衣装を着けた歌手たちが、不自然とも言える声を張り上げて、話の内容も親近感が湧かないものと思い込んでいたので、余計に驚いたのかもしれません。

そんな想い出のある《タンホイザー》、全幕通して観るのは本当に久し振りで、懐かしささえ感じてしまいます。
ドイツ本国では(ドイツだからこそ)ありえないような、極めてオーソドックスな演出ですが、今となっては返って貴重かもと思ってしまいます。衣装の重厚さ、華やかさはさすがMET。
しかし、この演出のオーソドックスさだと、話の「古さ」も際立ちますね。もちろん当時は「先端」であったでしょうが、現代性を持たせるには、どうしても演出の力が必要になってくるのかもしれません。
そうした意味では、ドレスデンで観たワーグナーはとても良かった。

今回は、なんといってもヴォルフラム役のマッテイが素晴らしい。艶やかなビロードのような声にうっとり。発音も母音と子音がきっちり立って聴こえてきて気持ちが良いなと。
清潔感溢れる雰囲気で、役どころにはぴったりでしたが、ドン・ジョヴァンニも十八番とのこと、どう演じるのか(変わるのか)なと興味を惹かれてしまいます。舞台人としての華(セクシーさ)があるのも、大事なこと。
初めて聴きましたが、ドイツ・リート、バッハなども是非聴いてみたいと思わせる美声でした。
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メジャーな海外オペラハウスの引っ越し公演を観るのは、ずいぶんと久し振り。好きな作品、好きな歌い手ともなれば(だから観に行くわけですが…)、いやがおうにも期待が高まります。
この演出は、すでに英国ロイヤル・オペラハウス中継上映で鑑賞済みでしたが、キャストが違うと印象も当然ですが変わってきます(当たり前ですが、本国での上演の方がやはり精度は高い)。
最後の地獄落ちシーンが賛否両論だと思いますが、「地獄」自体の認識も、日本人である私と、向こう(キリスト教徒)とでは実感としてかなり違いがあるはずなので、なかなか腑に落ちるところまではいかないのが残念。

演奏自体は、やはり世界的なオペラハウス、底力を感じました。
オケでは、内声というのでしょうか、主旋律以外の部分も、まるでスコアを観るようにくっきりと聴こえてくることがあり、その音の組み合わせの妙に、改めてモーツァルトの技法の見事さを感じることができたのは嬉しい収穫でした。「ああ、こんな部分もあったんだ」と感じること多々、新しい発見をさせてくれた明晰な演奏でした。

(明日早いため、なんだか記事が中途半端に…体裁はまた後日に整えます…)
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先日、久し振りにヘンデルのオペラに接してから、しばらく余韻に浸っています。クラシックは好きなものの、オペラはほとんど聴かない友人らにその話をすると、「《リナルド》からの“涙の流れるままに(私を泣かせてください)”は好き。クラシックっぽくない雰囲気がする」「”涙の流れるままに”はいいよね」と有名アリアはとても好評。
そう、やはりヘンデルは美しいメロディーを作り上げることに対しては第一級です…。

この秋に行く計画を立てていますが、ドレスデンのゼンパーオパーから届いたシーズンの案内にBarock-Tageというものが。Barock-Tageというよりも、内容はほぼHändel-Tageで、《ジューリオ・チェーザレ》《アルチーナ》《オルランド》とヘンデルのオペラ3本立てです。3日連続で聴けるなんて!
加えて、カウンターテナーのSabadusによるバロック歌曲リサイタルもあり、日本ではまず聴けないものであることは確か。ヘンデル好きには嬉しいですが、来年の3月ですか…(^^;)
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実演では10年ぶり(!)に接するヘンデルのオペラへ。
やはり、ヘンデルは天才です。改めて、ヘンデルの音楽(オペラ)がどれだけ見事に創り上げられているかということを実感しました。
オーケストラの編成はシンプルですし、歌手も多くはない(当然、合唱隊やバレエも無し。ラモーのあの華やかさとの違い!)。限られたもので最上のオペラを作り上げていく、それはひとえにヘンデルの音楽が雄弁にドラマを創り上げていくからにほかなりません。もちろんカストラートを始めとした歌手の力を忘れてはいけませんが、それもヘンデルの音楽がベースにあってこそ、その魅力を最大限に発揮できたに違いありません。

このオペラは、ヘンデルの中でも好きな作品の一つですので、今回の公演を楽しみにしていました。作品自体も、質の高いものだと思います、上演していただけるだけで、嬉しい限り。
久し振りのヘンデルに、あっという間に心が鷲掴みに。なんといっても実演はダイレクトに音楽に浸ることができます。
ヘンデルの音楽はやはり素晴らしい、ということをずっと感じていました。時代を超えるというのはこういうことだなと。

日本でもカウンターテナーが増えてきて、嬉しいことですね、10年前とは変わりました。一回きりとの公演とは、本当にもったいない限り。
近いうちに、またヘンデル作品の上演に触れたいものです(オペラをまた是非!)
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プッチーニの《マノン・レスコー》、実際の舞台に接するのは実は初めて。もちろん映像やCDではあれこれと観たり聴いたりして、中でもカラス&ディ・ステファノによるものは、それこそ何度聴いたことか…。あまり思い入れがあると、かえって観る前から舞台に対しての不安感が増したりして、何のために聴きに行っているのかとも感じてしまいますが…。

どの曲でも同じだと思いますが、ともかく始めが肝心。特にオペラでは、観客を一瞬のうちに、その“うそ”の世界に惹き込まなければなりません。今回オケについては、それは成功していたと思います。

一幕の弾むような、若々しい、青春の、恋の季節。初々しい恋の高揚感が匂い立ちます。デ・グリューのアリアがまさにそう。「ああ、若さって、初恋ってこういうものだ…」と感じさせる音楽に、一幕目から胸が一杯に。
その初々しい恋の季節から醒め、現実と恋の情熱の板挟みとなる二幕。ここでの二人のデュエットは、初恋を通り過ぎた男女の、かけひきを含めた情熱的な恋愛が描かれます。激しく美しい、そして官能的なデュエットには息が詰まるほど。
そして、二人の悲劇を予告するような、溜息に満ちた美しい間奏曲。三幕では一転して、この恋ゆえに囚人となりアメリカへ流される二人、最終幕でついに荒野で息絶えるマノン。ここでは、お互いを強く求め合いながらも成就できぬ狂おしいばかりの恋に溢れています。叶えられぬ恋の行き着く果ては、日本で言う「心中もの」に近いものとなってしまう…。

現実の世界では、このように恋愛を貫くというのはあまりにもかけ離れたものでしょうが、そこにこそ恋愛の本質があり、それこそがこの物語(原作であるプレヴォ著『マノン・レスコー』)が現在にまで生き続けている理由でしょう。そうした想いがなければ、果たして恋していると言えるでしょうか?
プッチーニの才能の炎によって、その恋の情熱が見事に表現されているところに、とても胸打たれるのです。特に、二人が社会的に転落していくのに比例して、いやがおうにも愛の純度が高まっていくところは、素晴らしいとしかいいようがないほどの表現力だと思います。

その音楽に演出が寄り添っていたかどうかは…、一幕目の眩いばかりの青春の若々しさから、二幕目の退廃感と官能の愛、三、四幕目の悲劇への転落とこれだけ幅があるのですから、その流れに乗ってほしかったと…(ストレーレルに師事されたということで、納得)。
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