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プッチーニのオペラの中でもことさら好きな作品の一つですが、上演機会が少ない作品だけに、以前から楽しみにしていました。
プッチーニの舞台自体が、私にとっては久し振りだったのですが、今回は「ああ、”オペラ”を観たな…」という実感が久々に湧き上がりました。
それだけ、我を忘れるほど、舞台に自分が吸い込まれていったということなのでしょう。それはその音楽があってこそ…プッチーニの魅力を、改めて感じさせられました。

現在、プッチーニのオペラは大変人気があって、それこそ世界中のオペラハウスでかけられない日は無いと言ってもよいのではないでしょうか。そして、オペラの入門編でもよく取り上げられるほどの分かりやすさ。
旋律と台本が上手く融合され、聴衆の情感にストレートに訴えかけるドラマが巧みに創り上げられていることが、理由として挙げられるのでしょうが、それゆえプッチーニの作品が大衆的=通俗的であるという認識は全く異なったものであると思っています。

ドビュッシーの言葉が思い浮かびます…、プッチーニのオペラには、その言葉が当てはまるのではないでしょうか。

「芸術というものは、"うそ”のうちで最も美しいうそです。…一般大衆も、エリートも、忘我というものを求めて芸術に集まってくるのではないでしょうか。忘我、これまた“うそ”のもう一つの形式でしょう。」

「音楽は謙虚に人を楽しませることにつとめるべきです。この限界内にとどまってもなお、おそらく非常にすばらしいものが期待できます。極端に複雑なものは、芸術と相容れぬものです。美は感じとれるものでなければなりませんし、美はわれわれに直接的な悦びを与え、われわれがそれを捉えるのに何らの努力をせずとも、こちらを否応なしに納得させ、あるいはわれわれのうちに忍び込んでしまう、というのでなければなりません。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ、たとえばモーツァルト。大芸術家とはそういうものです。」

…公演自体の感想までの前段階が長くなってしまいました。それはまた次回に。
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いわゆる「オペラ」の中でも最高傑作の一つといえるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》、私も魅かれてやまない作品で、天才の手によるものとは、こうしたものを指すのだと思わずにはいられません。

まずその音楽…、このオペラに特徴的なデモーニッシュで、官能的ですらある旋律に心を奪われてしまいます。モーツァルトのそうした部分がいかんなく発揮されており、それが、なんとも自然な滑らかさで、心理を抉り出すような愛憎に満ちたドラマを形作っていく…、こちらにそうと気づかせないほどの流麗さ、なんてエレガントなのでしょう!

そして、私もドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラと同様に、ドン・ジョヴァンニという存在に魅せられてしまうのです。人間の本能のみで生きているような、そしてそれを肯定し、自己肯定の論理で常識を一蹴する…。「自由だ!」とドン・ジョヴァンニは叫びますが、なんでもありの世界=本能の解放、快楽の追求を宣言しているように思えます。今が良ければよい。当然、社会的にも、宗教的にもそれは許されません。
最後には亡霊と対決し、地獄に落ちるわけですが…。

そうしたドン・ジョヴァンニには、人間離れしたカリスマ性が求められます。
どのようにドン・ジョヴァンニを描くか、演出の腕の見せ所でもありますが、今回はどうもそこが弱かった。チェスの駒に見立てた演出は、神の視点で描くというようなオリジナリティが感じられますが、意図が今一つ掴めないもの。

オーケストラ、歌い手さんはとても健闘されていたと思います。
モーツァルトによる大好きなオペラ、久し振りに楽しむことができました(しかし、友人から渡された河上徹太郎によるドン・ジョヴァンニ論の理解には至らず…)。
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―それは私がそのために世の中で一番不幸せな人間になった程、それほど激しい情熱で彼女を愛しているということです。彼女を自由な身にする為に、パリであらゆる手段を尽くしましたが、嘆願も、策略も、暴力も私にはなんの役にも立ちませんでした。私は彼女がたとえ世界の果てまで行かねばならぬとしても、その後を追って行こうと決心しました―
                             プレヴォ作『マノン・レスコー』より


歌劇《マノン・レスコー》は、プッチーニの中でもとりわけ好きな作品で、今回の上映を楽しみにしていました。
これぞイタリア・オペラ、これぞ恋といわずして、なにを恋と呼びましょうや…。
《ラ・ボエーム》などの有名作に比べ、上演の機会は少ないですが、最近はベルリンやローマなどでも上演が続いているそう(ベルリン・フィルの公演は来月にBSで放映予定)。来年には日本でも上演予定があり、嬉しい限りです。
原作はプレヴォの『マノン・レスコー』。上の抜粋部分が間奏曲で幕に映し出され、もうここで涙涙…となってしまいました…。
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マノンはオポライス、相手役デ・グリューはカウフマンという豪華キャスト。演出はジョナサン・ケントで、リアリズムを追求したという舞台により、二人とも渾身の演技、そして歌唱で圧倒されました。オポライスがカウフマンを引っ張るような形で、ドラマを形作っていました。カウフマンも頑張ったという印象。演劇の国イギリスですね、舞台は当然現代に置き換えられ、精神的リアリズムが重要。ですが違和感は無く、二人の恋をくっきりと浮かび上がらせていて、やはりこの作品はどこまでも恋の情熱を描いているのだと思わずにはいられませんでした。

特に2幕の再会場面でのデュエットは、真の恋人同士にしか見えない熱気を帯びたもので、目をみはりました。その後の悲劇性が更に際立ったように思えます。

指揮はパッパーノ。モダンでドラマチックな演奏で、グイグイとひき込まれてしまいました。スコアをピアノで弾きながら解説する映像もあり、作品への理解と情熱には、こちらも胸が熱くなりました…。
しばらく余韻が続きそうです。
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ウィーンの作曲家コルンゴルトによるこのオペラは、私の偏愛する作品の一つで、いつか実際の舞台を観たいと思ってきたもの。
10年前、ザルツブルクにてデッカー演出のものを観ることができましたが、時を経て、今、日本で2つのプロダクションが同時に観られるとは、なんという巡り会わせ…。
今の時代(日本)が、何かこのオペラに惹かれるものを感じているのかもしれません。

私にとって、これはまさにウィーンのオペラ。作品の舞台である古都ブリュージュならぬ、古都ウィーンの薫りを濃厚に感じます。
生と死が絡み合い、時に官能的な旋律に彩られて展開するストーリーと曲は、20年前に初演し、日本でも大ヒットしたウィーン・ミュージカル、《エリサベート》とも共通する、独特な雰囲気を持っています。
帝政末期を舞台にした《エリザベート》と、帝政崩壊時に作曲された《死の都》。
《エリザベート》では「死(Der Tod)」が主人公を捕えようとし、《死の都》では、愛した亡き妻が主人公を捕えて離さない…。

失われた過去に対する愛着が、曲として見事に表現されており、遠い昔に誘われるような、いつもノスタルジックな想いに捉われます。10年ぶりに接してみて、それをさらに強く感じるようになりました。決して戻ってはこない過去…、甘く苦い記憶。
過去に引き摺られながらも、「死者は決して生き返ることは無い…、この世では会うことができないのだ。天国で会えるその時まで…」という主人公に、悲しみを受け止めつつ、今を生きていくことが大事なのだと、ほんのり勇気づけられる気がします。

今回の上演はオール日本人キャスト、力の入れ込みようが伝わってきました。
このオペラは、歌唱ももちろんですが、問われるのは何といってもオケだと思います。後のハリウッド映画音楽を想像させる、壮大なコルンゴルト節を十分に味わうことができました。
特に印象に残ったのが、3幕での「聖体の音楽」。これぞコルンゴルトという迫力で、後の《ヘリアーネの奇跡》が思い浮かびました。
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《ローエングリン》はワーグナーで最も好きな作品。
音楽にはロマンティックな叙情性があって、喩えるならば静かに燃える蒼白い炎のよう。
その炎に包まれるのを感じて、久し振りにワーグナーを聴く愉しみを味わいました。
今回の公演では、団員100名ほどが来日を拒否されたそうですが、さすがにこなれた演奏で、ワーグナーの世界にどっぷりと浸ることができました。

エルザの禁じられた問い、いくら純粋な心の持ち主とはいっても人間であれば当然の行為、嫉妬、疑い、怒りで自分自身を追い詰めていく…。
ローエングリンは「自分自身を苦しめるな」と何度となく忠告するのですが、心の毒が増殖してしまったエルザの耳には届かない。
自分の心さえよく分からないのが人間ですから、信じるという行為もたやすいものではないはず。愛するがゆえに生まれる心の毒もある。
オルトルートは人間のもっているそうした「毒」を象徴するような存在のよう、「毒」の魅力を持ち合わせているので、ある意味魅了されてしまいます。

…こんなことをいろいろ考えてしまうのも、ワーグナーの面白さ。
マイヤーによるオルトルートは存在感抜群。
ローエングリンのボータは安定感があり、代役としての来日は本当にありがたい限りでした。
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この時期に、オペラなぞ観ている場合でないのは承知ですが、指揮と演出に惹かれ観にいくことに。
2幕までしか聴いていないので、そこまでの感想となりますが…。

この曲はどちらかというと苦手。それは生理的な嫌悪感に近いもののような気がします。
「ワーグナーの毒」と言われるものなのでしょうか、自分の理性のつかないところに持っていかれる、「これは危ない。近づきすぎてはいけない、身を委ねてはいけない」というストッパーがかかるのです。
私に覆いかぶさり、息苦しさを感じさせる…、
それが私にとっての《トリスタンとイゾルデ》でした。

でも今回の演奏を聞いて、「なんだ、大丈夫じゃない」(息苦しさゼロ)。
とても健康的な《トリスタンとイゾルデ》。
夜の世界と死、そして愛の官能にひたひたと満たされるような感覚はあまりなく…。
頻繁に現れる前奏曲冒頭「苦悩・憧憬の動機」も、「だから何?」と言っているようなそっけなさに聴こえ…。
健康的というのは、演出からの印象も大きいかもしれません。
マクヴィカーによるトリスタンとイゾルデは、現代人のような描かれ方で、印象は「普通の恋人たち」。
愛情の示し方(1幕トリスタンを問い詰めるときのイゾルデの態度、愛の媚薬を飲んだ後の抱擁、2幕トリスタンからイゾルデへのキス、等)が、分かりやすいため、こちらがストレートに納得してしまいます。
これではメロドラマ、神秘性と神話性が薄くなってしまったような気がします。

マクヴィカーの演出は一度ヘンデルのオペラで接したことがありますが、古代ローマの皇帝ネロやポッペアが登場するストーリーを、現代に置き換えたもの(いわゆる「読み替え演出」)。
これがとても洗練された舞台で、鮮やかな手腕だったなと、今でも印象に残っています。
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今週日曜、同僚が所属しているピアノサークルの練習会へ。
人前で弾く度胸を着けるためでしたが、発表会形式ではなく、参加人数は5人程度だったので、すごくリラックスして弾けてしまいました…。
ブラームスとショパンを弾きましたが、グランドピアノだと、やっぱり気持ちいいですね。
今回は偶然にもショパン弾きの方が多く、良い刺激になりました。
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夜にはMETライブビューイングのアンコール上映《アルミーダ》へ。
…ここのところ、ライブビューイングや歌舞伎鑑賞のため、一週間に一度は銀座へ通っている計算に。

このオペラの目玉は、フレミングが魔女アルミーダを歌うこと。
フレミングがロッシーニを歌うことについては、歌唱スタイルからいっても違和感があるのは予想されることでしたが、存在感は際立っており、妖艶で魅力的な魔女を演じていました。
一途に恋するひたむきさがある一方、魔術で人を幻惑させ、復讐に燃えるという、「聖女と魔女」の二面性をいかに表現するかが求められる難役。
愛と復讐の間で揺れ動くさまの感情表現には深みがあり、音楽、台本とも納得できるものでした。
歌唱はともかく、こんな魅力的な魔女ならば、誘惑されてもいいかも、と思えてしまうフレミングのアルミーダでした。

ロッシーニらしく、複数のテノールによる競演もみどころ。
METのロッシーニ歌い、ブラウンリーは技巧的なアリアに抜けるような高音も難なく決めて、聴き応えがありました。ロッシーニを聴いているという実感を味合わせてくれます。

3時間超の作品ですが、全く長さを感じませんでした。
オケは重い演奏に思えましたが、いいですね~ロッシーニ。
アルミーダを取り上げたオペラは多いので、聞き比べの楽しみも。

ただジマーマンによる演出は、セットの色彩感や衣装が垢抜けない印象。バレエの振り付けも、もっと洒落心に満ちた、洗練さを感じられるものにならないかと思いました。
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昨日はMETライブビューイングのアンコール上映へ。
日本では上演機会の少ないヴェルディ《シモン・ボッカネグラ》、ヴェルディをほとんど聴かない私ですが、一度も接したことのない作品なので、この機会に。

ヴェルディ作品の中では「渋い」部類に入るのでしょうか。
歴史上の英雄的人物が主人公のオペラ、歌舞伎や文楽の時代物を思い起こさせるような、義理人情の世界に、ありえない偶然性が重なる強引なストーリー運び、そして喜怒哀楽の表現過多。
…うーん、どうも人物描写が表面的で、感情が付いていかない。
でも、女性(ヒロイン)の描き方は共感できるもので、受身ではない、自立した意志を持つ強さがありました。
時代の流れでしょうか。

ヒロイン(アメーリア)のピエチョンカは、6年前に《薔薇の騎士》マルシャリンで実際に聴いたことがありますが、母性を感じる豊潤な歌声で、凛とした硬質さも持ち合わせています。
タイトルロールのドミンゴ、演技力はさすが。

音楽については、私と相性の合わない部類。
指揮のレヴァインは豪快にオケを鳴らして、ドラマティックに舞台を盛り上げていました。

ジャンカルロ・デル・モナコの演出は当時を再現した、大変豪華なもの。
そして衣装も、なんと手の込んでいる事!ヒロインのドレスは溜息もので、一見の価値あり。

これぞMET、という舞台でしたが、もうお腹一杯という感じです…。
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夏休み5日目は、お休みの日らしく朝寝坊。ゆっくりと目覚めて、銀座まで《ハムレット》鑑賞へ。
鑑賞後は自宅に戻って国試勉強。
夕方になって、職場の仲良し同僚ら3人と、地元のイタリア料理店へ。
美味しい料理を食べて飲んで、笑って…。
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アンブロワーズ・トマ《ハムレット》を聴くのは初めて。
指揮のラングレが話していたように、典型的なフランスオペラ。大規模な合唱隊に、ソリストらの重唱が加わり、歌も舞台も華やかで壮麗な19世紀のグランド・オペラ。
初演時には、ワーグナーの主要作品はすでに世に広まっていたと思いますが、音楽自体にワーグナーの影響は感じられません。影響を受けるのはもっと後の世代でしょうか…。
(後からワーグナーが本格的に認められるのは1870年代後半からだと分かりました。《ハムレット》初演は1868年)

音楽的にピンとくるものはありませんでしたが、なにより演劇的要素の強い作品で、タイトルロールのキーンリーサイドの鬼気迫る歌役者ぶり、またオフィーリア役のペテルセンによる技巧を凝らした「狂乱の場」の見事さ、またベテランのモリス&ラーモアが手堅く脇を固め(下手したら主役が食われるほどの迫力)、それに合唱の力強さが加わり、圧倒される素晴らしさでした。
オケも緊迫感のある演奏で、ドラマを引っ張っていました。
歌手とオケがこれだけ揃えば、もう演出はおまけみたいなものだなと思いました…(へんな演出だったら、かえって台無し)。

キーンリーサイドがインテリジェンスな方でびっくり。インタビューでこのオペラを見事に「解説」していました。「言葉が命のシェイクスピアとは違っているが(台本はシェイクスピアではない)が、原作に特徴的なものはこのオペラに残されている」「人間とは何かを追求したい」等々…。

今まで知らなかったオペラの魅力に触れることができて、良かった。
映像ではありますが、METライブビューイングに感謝。
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人生の大イベントを終えまして、ようやく日常が戻ってきました(^-^;)
ゆっくりと音楽を聴く余裕も出てきて、ホッとしています。

e0036980_010369.jpg今、目に留まって聴いているのは、ガランチャによるアルバム〈ベルカント〉。
「ベルカント=美しい声」とはよく言ったもの、この手(ベルカントオペラ)の音楽は、四の五の言わず、美声が与えてくれる快楽に身を委ねることが幸せ…。
ベルカントものを聴くのが久し振りでもあり、「ああ、綺麗だな…」と素直に感じます。
まず声ありき、オケは声に奉仕するために奏でるといったイメージですし、人間の声とは、こんなにも惹きつけられる美しさがあるのだと認識されられます。
ガランチャはモーツァルトとオッフェンバックで実際に聴いたことがありますが、ベルカントオペラもぴったり。
ロッシーニやベッリーニの男性役もビジュアル的に凛々しく、舞台映えすることでしょう。

このアルバムには、ドニゼッティのメジャーではない作品《カレの包囲》《ドム・セバスティアン、ポルトガルの王》もあり、選曲に一ひねりの印象(音楽的には「聴いたことあるような…」)。
《カレの包囲》第2幕の二重唱は、ソプラノとメゾによる美声の競演、これぞベルカントといった感。
アルバムで取り上げられている曲の中で、実際に舞台で観てみたいのは《マリア・ストゥアルダ》のエリザベス1世、ヒロインの敵役をどのようにきりっと演じてくれるかしらと、想像が膨らみます。
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