カテゴリ:opera( 53 )

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先日、久し振りにヘンデルのオペラに接してから、しばらく余韻に浸っています。クラシックは好きなものの、オペラはほとんど聴かない友人らにその話をすると、「《リナルド》からの“涙の流れるままに(私を泣かせてください)”は好き。クラシックっぽくない雰囲気がする」「”涙の流れるままに”はいいよね」と有名アリアはとても好評。
そう、やはりヘンデルは美しいメロディーを作り上げることに対しては第一級です…。

この秋に行く計画を立てていますが、ドレスデンのゼンパーオパーから届いたシーズンの案内にBarock-Tageというものが。Barock-Tageというよりも、内容はほぼHändel-Tageで、《ジューリオ・チェーザレ》《アルチーナ》《オルランド》とヘンデルのオペラ3本立てです。3日連続で聴けるなんて!
加えて、カウンターテナーのSabadusによるバロック歌曲リサイタルもあり、日本ではまず聴けないものであることは確か。ヘンデル好きには嬉しいですが、来年の3月ですか…(^^;)
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実演では10年ぶり(!)に接するヘンデルのオペラへ。
やはり、ヘンデルは天才です。改めて、ヘンデルの音楽(オペラ)がどれだけ見事に創り上げられているかということを実感しました。
オーケストラの編成はシンプルですし、歌手も多くはない(当然、合唱隊やバレエも無し。ラモーのあの華やかさとの違い!)。限られたもので最上のオペラを作り上げていく、それはひとえにヘンデルの音楽が雄弁にドラマを創り上げていくからにほかなりません。もちろんカストラートを始めとした歌手の力を忘れてはいけませんが、それもヘンデルの音楽がベースにあってこそ、その魅力を最大限に発揮できたに違いありません。

このオペラは、ヘンデルの中でも好きな作品の一つですので、今回の公演を楽しみにしていました。作品自体も、質の高いものだと思います、上演していただけるだけで、嬉しい限り。
久し振りのヘンデルに、あっという間に心が鷲掴みに。なんといっても実演はダイレクトに音楽に浸ることができます。
ヘンデルの音楽はやはり素晴らしい、ということをずっと感じていました。時代を超えるというのはこういうことだなと。

日本でもカウンターテナーが増えてきて、嬉しいことですね、10年前とは変わりました。一回きりとの公演とは、本当にもったいない限り。
近いうちに、またヘンデル作品の上演に触れたいものです(オペラをまた是非!)
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プッチーニの《マノン・レスコー》、実際の舞台に接するのは実は初めて。もちろん映像やCDではあれこれと観たり聴いたりして、中でもカラス&ディ・ステファノによるものは、それこそ何度聴いたことか…。あまり思い入れがあると、かえって観る前から舞台に対しての不安感が増したりして、何のために聴きに行っているのかとも感じてしまいますが…。

どの曲でも同じだと思いますが、ともかく始めが肝心。特にオペラでは、観客を一瞬のうちに、その“うそ”の世界に惹き込まなければなりません。今回オケについては、それは成功していたと思います。

一幕の弾むような、若々しい、青春の、恋の季節。初々しい恋の高揚感が匂い立ちます。デ・グリューのアリアがまさにそう。「ああ、若さって、初恋ってこういうものだ…」と感じさせる音楽に、一幕目から胸が一杯に。
その初々しい恋の季節から醒め、現実と恋の情熱の板挟みとなる二幕。ここでの二人のデュエットは、初恋を通り過ぎた男女の、かけひきを含めた情熱的な恋愛が描かれます。激しく美しい、そして官能的なデュエットには息が詰まるほど。
そして、二人の悲劇を予告するような、溜息に満ちた美しい間奏曲。三幕では一転して、この恋ゆえに囚人となりアメリカへ流される二人、最終幕でついに荒野で息絶えるマノン。ここでは、お互いを強く求め合いながらも成就できぬ狂おしいばかりの恋に溢れています。叶えられぬ恋の行き着く果ては、日本で言う「心中もの」に近いものとなってしまう…。

現実の世界では、このように恋愛を貫くというのはあまりにもかけ離れたものでしょうが、そこにこそ恋愛の本質があり、それこそがこの物語(原作であるプレヴォ著『マノン・レスコー』)が現在にまで生き続けている理由でしょう。そうした想いがなければ、果たして恋していると言えるでしょうか?
プッチーニの才能の炎によって、その恋の情熱が見事に表現されているところに、とても胸打たれるのです。特に、二人が社会的に転落していくのに比例して、いやがおうにも愛の純度が高まっていくところは、素晴らしいとしかいいようがないほどの表現力だと思います。

その音楽に演出が寄り添っていたかどうかは…、一幕目の眩いばかりの青春の若々しさから、二幕目の退廃感と官能の愛、三、四幕目の悲劇への転落とこれだけ幅があるのですから、その流れに乗ってほしかったと…(ストレーレルに師事されたということで、納得)。
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プッチーニのオペラの中でもことさら好きな作品の一つですが、上演機会が少ない作品だけに、以前から楽しみにしていました。
プッチーニの舞台自体が、私にとっては久し振りだったのですが、今回は「ああ、”オペラ”を観たな…」という実感が久々に湧き上がりました。
それだけ、我を忘れるほど、舞台に自分が吸い込まれていったということなのでしょう。それはその音楽があってこそ…プッチーニの魅力を、改めて感じさせられました。

現在、プッチーニのオペラは大変人気があって、それこそ世界中のオペラハウスでかけられない日は無いと言ってもよいのではないでしょうか。そして、オペラの入門編でもよく取り上げられるほどの分かりやすさ。
旋律と台本が上手く融合され、聴衆の情感にストレートに訴えかけるドラマが巧みに創り上げられていることが、理由として挙げられるのでしょうが、それゆえプッチーニの作品が大衆的=通俗的であるという認識は全く異なったものであると思っています。

ドビュッシーの言葉が思い浮かびます…、プッチーニのオペラには、その言葉が当てはまるのではないでしょうか。

「芸術というものは、"うそ”のうちで最も美しいうそです。…一般大衆も、エリートも、忘我というものを求めて芸術に集まってくるのではないでしょうか。忘我、これまた“うそ”のもう一つの形式でしょう。」

「音楽は謙虚に人を楽しませることにつとめるべきです。この限界内にとどまってもなお、おそらく非常にすばらしいものが期待できます。極端に複雑なものは、芸術と相容れぬものです。美は感じとれるものでなければなりませんし、美はわれわれに直接的な悦びを与え、われわれがそれを捉えるのに何らの努力をせずとも、こちらを否応なしに納得させ、あるいはわれわれのうちに忍び込んでしまう、というのでなければなりません。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ、たとえばモーツァルト。大芸術家とはそういうものです。」

…公演自体の感想までの前段階が長くなってしまいました。それはまた次回に。
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いわゆる「オペラ」の中でも最高傑作の一つといえるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》、私も魅かれてやまない作品で、天才の手によるものとは、こうしたものを指すのだと思わずにはいられません。

まずその音楽…、このオペラに特徴的なデモーニッシュで、官能的ですらある旋律に心を奪われてしまいます。モーツァルトのそうした部分がいかんなく発揮されており、それが、なんとも自然な滑らかさで、心理を抉り出すような愛憎に満ちたドラマを形作っていく…、こちらにそうと気づかせないほどの流麗さ、なんてエレガントなのでしょう!

そして、私もドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラと同様に、ドン・ジョヴァンニという存在に魅せられてしまうのです。人間の本能のみで生きているような、そしてそれを肯定し、自己肯定の論理で常識を一蹴する…。「自由だ!」とドン・ジョヴァンニは叫びますが、なんでもありの世界=本能の解放、快楽の追求を宣言しているように思えます。今が良ければよい。当然、社会的にも、宗教的にもそれは許されません。
最後には亡霊と対決し、地獄に落ちるわけですが…。

そうしたドン・ジョヴァンニには、人間離れしたカリスマ性が求められます。
どのようにドン・ジョヴァンニを描くか、演出の腕の見せ所でもありますが、今回はどうもそこが弱かった。チェスの駒に見立てた演出は、神の視点で描くというようなオリジナリティが感じられますが、意図が今一つ掴めないもの。

オーケストラ、歌い手さんはとても健闘されていたと思います。
モーツァルトによる大好きなオペラ、久し振りに楽しむことができました(しかし、友人から渡された河上徹太郎によるドン・ジョヴァンニ論の理解には至らず…)。
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―それは私がそのために世の中で一番不幸せな人間になった程、それほど激しい情熱で彼女を愛しているということです。彼女を自由な身にする為に、パリであらゆる手段を尽くしましたが、嘆願も、策略も、暴力も私にはなんの役にも立ちませんでした。私は彼女がたとえ世界の果てまで行かねばならぬとしても、その後を追って行こうと決心しました―
                             プレヴォ作『マノン・レスコー』より


歌劇《マノン・レスコー》は、プッチーニの中でもとりわけ好きな作品で、今回の上映を楽しみにしていました。
これぞイタリア・オペラ、これぞ恋といわずして、なにを恋と呼びましょうや…。
《ラ・ボエーム》などの有名作に比べ、上演の機会は少ないですが、最近はベルリンやローマなどでも上演が続いているそう(ベルリン・フィルの公演は来月にBSで放映予定)。来年には日本でも上演予定があり、嬉しい限りです。
原作はプレヴォの『マノン・レスコー』。上の抜粋部分が間奏曲で幕に映し出され、もうここで涙涙…となってしまいました…。
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マノンはオポライス、相手役デ・グリューはカウフマンという豪華キャスト。演出はジョナサン・ケントで、リアリズムを追求したという舞台により、二人とも渾身の演技、そして歌唱で圧倒されました。オポライスがカウフマンを引っ張るような形で、ドラマを形作っていました。カウフマンも頑張ったという印象。演劇の国イギリスですね、舞台は当然現代に置き換えられ、精神的リアリズムが重要。ですが違和感は無く、二人の恋をくっきりと浮かび上がらせていて、やはりこの作品はどこまでも恋の情熱を描いているのだと思わずにはいられませんでした。

特に2幕の再会場面でのデュエットは、真の恋人同士にしか見えない熱気を帯びたもので、目をみはりました。その後の悲劇性が更に際立ったように思えます。

指揮はパッパーノ。モダンでドラマチックな演奏で、グイグイとひき込まれてしまいました。スコアをピアノで弾きながら解説する映像もあり、作品への理解と情熱には、こちらも胸が熱くなりました…。
しばらく余韻が続きそうです。
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ウィーンの作曲家コルンゴルトによるこのオペラは、私の偏愛する作品の一つで、いつか実際の舞台を観たいと思ってきたもの。
10年前、ザルツブルクにてデッカー演出のものを観ることができましたが、時を経て、今、日本で2つのプロダクションが同時に観られるとは、なんという巡り会わせ…。
今の時代(日本)が、何かこのオペラに惹かれるものを感じているのかもしれません。

私にとって、これはまさにウィーンのオペラ。作品の舞台である古都ブリュージュならぬ、古都ウィーンの薫りを濃厚に感じます。
生と死が絡み合い、時に官能的な旋律に彩られて展開するストーリーと曲は、20年前に初演し、日本でも大ヒットしたウィーン・ミュージカル、《エリサベート》とも共通する、独特な雰囲気を持っています。
帝政末期を舞台にした《エリザベート》と、帝政崩壊時に作曲された《死の都》。
《エリザベート》では「死(Der Tod)」が主人公を捕えようとし、《死の都》では、愛した亡き妻が主人公を捕えて離さない…。

失われた過去に対する愛着が、曲として見事に表現されており、遠い昔に誘われるような、いつもノスタルジックな想いに捉われます。10年ぶりに接してみて、それをさらに強く感じるようになりました。決して戻ってはこない過去…、甘く苦い記憶。
過去に引き摺られながらも、「死者は決して生き返ることは無い…、この世では会うことができないのだ。天国で会えるその時まで…」という主人公に、悲しみを受け止めつつ、今を生きていくことが大事なのだと、ほんのり勇気づけられる気がします。

今回の上演はオール日本人キャスト、力の入れ込みようが伝わってきました。
このオペラは、歌唱ももちろんですが、問われるのは何といってもオケだと思います。後のハリウッド映画音楽を想像させる、壮大なコルンゴルト節を十分に味わうことができました。
特に印象に残ったのが、3幕での「聖体の音楽」。これぞコルンゴルトという迫力で、後の《ヘリアーネの奇跡》が思い浮かびました。
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《ローエングリン》はワーグナーで最も好きな作品。
音楽にはロマンティックな叙情性があって、喩えるならば静かに燃える蒼白い炎のよう。
その炎に包まれるのを感じて、久し振りにワーグナーを聴く愉しみを味わいました。
今回の公演では、団員100名ほどが来日を拒否されたそうですが、さすがにこなれた演奏で、ワーグナーの世界にどっぷりと浸ることができました。

エルザの禁じられた問い、いくら純粋な心の持ち主とはいっても人間であれば当然の行為、嫉妬、疑い、怒りで自分自身を追い詰めていく…。
ローエングリンは「自分自身を苦しめるな」と何度となく忠告するのですが、心の毒が増殖してしまったエルザの耳には届かない。
自分の心さえよく分からないのが人間ですから、信じるという行為もたやすいものではないはず。愛するがゆえに生まれる心の毒もある。
オルトルートは人間のもっているそうした「毒」を象徴するような存在のよう、「毒」の魅力を持ち合わせているので、ある意味魅了されてしまいます。

…こんなことをいろいろ考えてしまうのも、ワーグナーの面白さ。
マイヤーによるオルトルートは存在感抜群。
ローエングリンのボータは安定感があり、代役としての来日は本当にありがたい限りでした。
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この時期に、オペラなぞ観ている場合でないのは承知ですが、指揮と演出に惹かれ観にいくことに。
2幕までしか聴いていないので、そこまでの感想となりますが…。

この曲はどちらかというと苦手。それは生理的な嫌悪感に近いもののような気がします。
「ワーグナーの毒」と言われるものなのでしょうか、自分の理性のつかないところに持っていかれる、「これは危ない。近づきすぎてはいけない、身を委ねてはいけない」というストッパーがかかるのです。
私に覆いかぶさり、息苦しさを感じさせる…、
それが私にとっての《トリスタンとイゾルデ》でした。

でも今回の演奏を聞いて、「なんだ、大丈夫じゃない」(息苦しさゼロ)。
とても健康的な《トリスタンとイゾルデ》。
夜の世界と死、そして愛の官能にひたひたと満たされるような感覚はあまりなく…。
頻繁に現れる前奏曲冒頭「苦悩・憧憬の動機」も、「だから何?」と言っているようなそっけなさに聴こえ…。
健康的というのは、演出からの印象も大きいかもしれません。
マクヴィカーによるトリスタンとイゾルデは、現代人のような描かれ方で、印象は「普通の恋人たち」。
愛情の示し方(1幕トリスタンを問い詰めるときのイゾルデの態度、愛の媚薬を飲んだ後の抱擁、2幕トリスタンからイゾルデへのキス、等)が、分かりやすいため、こちらがストレートに納得してしまいます。
これではメロドラマ、神秘性と神話性が薄くなってしまったような気がします。

マクヴィカーの演出は一度ヘンデルのオペラで接したことがありますが、古代ローマの皇帝ネロやポッペアが登場するストーリーを、現代に置き換えたもの(いわゆる「読み替え演出」)。
これがとても洗練された舞台で、鮮やかな手腕だったなと、今でも印象に残っています。
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今週日曜、同僚が所属しているピアノサークルの練習会へ。
人前で弾く度胸を着けるためでしたが、発表会形式ではなく、参加人数は5人程度だったので、すごくリラックスして弾けてしまいました…。
ブラームスとショパンを弾きましたが、グランドピアノだと、やっぱり気持ちいいですね。
今回は偶然にもショパン弾きの方が多く、良い刺激になりました。
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夜にはMETライブビューイングのアンコール上映《アルミーダ》へ。
…ここのところ、ライブビューイングや歌舞伎鑑賞のため、一週間に一度は銀座へ通っている計算に。

このオペラの目玉は、フレミングが魔女アルミーダを歌うこと。
フレミングがロッシーニを歌うことについては、歌唱スタイルからいっても違和感があるのは予想されることでしたが、存在感は際立っており、妖艶で魅力的な魔女を演じていました。
一途に恋するひたむきさがある一方、魔術で人を幻惑させ、復讐に燃えるという、「聖女と魔女」の二面性をいかに表現するかが求められる難役。
愛と復讐の間で揺れ動くさまの感情表現には深みがあり、音楽、台本とも納得できるものでした。
歌唱はともかく、こんな魅力的な魔女ならば、誘惑されてもいいかも、と思えてしまうフレミングのアルミーダでした。

ロッシーニらしく、複数のテノールによる競演もみどころ。
METのロッシーニ歌い、ブラウンリーは技巧的なアリアに抜けるような高音も難なく決めて、聴き応えがありました。ロッシーニを聴いているという実感を味合わせてくれます。

3時間超の作品ですが、全く長さを感じませんでした。
オケは重い演奏に思えましたが、いいですね~ロッシーニ。
アルミーダを取り上げたオペラは多いので、聞き比べの楽しみも。

ただジマーマンによる演出は、セットの色彩感や衣装が垢抜けない印象。バレエの振り付けも、もっと洒落心に満ちた、洗練さを感じられるものにならないかと思いました。
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