カテゴリ:opera( 53 )

今週水曜の公演を鑑賞。上演されることの少ないオペラですので、この先、まず実演に接する機会はないだろうと思い、劇場へ。

何の予習もなく、このオペラを初めて観ることになったのですが、「たわいもない西部劇オペラ」などではない、普遍性のある深いテーマを持った作品だと感じました。舞台はゴールドラッシュ時代のカリフォルニアですが、そこに根本的なテーマがあるわけではない。今回の演出は、舞台を現代に置き換えていましたが、テーマに対しての焦点はぶれていなかった。ですので、私にとって違和感は全くありませんでした。

このオペラ、私の中ではスタインベック「怒りの葡萄」と重なってみえました。恐慌のため、貧困にあえぐ農民一家が故郷を捨て、「楽園」と思い描いていたカリフォルニアへ向かったものの、そこはまるで地獄のよう、さらなる苦しみが続いていく。いったい、何処に行けば楽園に辿り着けるのだろう…。このオペラにも、楽園を思い描いてその場所へきたものの、どうにもならない現実に、やるせない思いを抱いている人々が描かれています。今回の演出はその部分に重きを置いたようでした。
最後、愛し合うミニーとジョンソンが結ばれ、「さらば、カリフォルニア…」と遠くの地へ去っていく。楽園=カリフォルニアを捨てて新たな地へと向かう二人。今度こそ、本当の楽園に辿り着けるのでしょうか。そして取り残された人々のクローズアップ、単なるハッピーエンドとは異なる、重い余韻が残りました。

このオペラ、メトロポリタン歌劇場(アメリカ)のために書き下ろした作品ですが、旧約聖書のくだりが出てきたり、楽園を思い起こさせるところは、当然のことながら、やはりアメリカもクリスチャンの国だなぁという印象を受けました。

このオペラがなかなか上演されないのは、インパクトのある独立したアリアがないことが、理由の一つとして挙げられるでしょうか。そしてこのオペラ、アリアで聴かせるというよりも、切れ目なく音楽が流れていくのですが、その流れがスムーズでないような気がします。プッチーニ特有の叙情的な音楽が続いていたかと思うと、突然その流れが切り替わり、いきなり刺々しい押しの強い音楽になる。モーツァルトのような、鮮やかな切り替わりでななく、なんだか唐突。

オケは、とっても良かったです。久々のプッチーニ、堪能しました。
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今日は夜勤を終え、そのまま徹夜状態で『清教徒』鑑賞に。さいたま副都心にある映画館でのアンコール上映です。

この上演、ネトレプコの魅力が全開。今、乗りに乗っているソプラノであることは間違いないでしょうね。そのスターぶりにノックアウトされました。素晴らしかった!

もう眠くて仕方ないので、また感想は後ほど載せます…。
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昨年から日本でも始まったニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のライブ上映。ブロッサム銀座で鑑賞しました。初めてでしたので、興味津々。作品は『セヴィリャの理髪師』。
平日マチネだったので観客の年齢層がかなり高く、私などは浮いてしまいそう。客の入りは8割を超えていたと思います、大盛況。オペラ愛好家の方が多いのでしょう、普通の映画以上の熱気が感じられました(フローレスファンの方が多かったのかも)。

上映はとても楽しめました!大変気に入りました。さすがエンターテイメントの王国アメリカ、サービス精神満載の作り方、やることが上手いです。アメリカだから、こうした方法が編み出せたんでしょうね。世界230カ所でこうした上映がなされているそうです、スゴイ。画質は大変綺麗。音は生と比べるのは無理がありますが、十分満足のいくものでした。

この『理髪師』のキャストもさすがメト、スター揃い踏みで、文句の出しようがありません。最高に愉快な気分を満喫(バルバロ役カルロのおかしさといったら!)。ロッシーニって、本当に人を楽しくさせてくれます。才能って、こういうことを言うのですね。

演出もとてもよくできていました。どちらかといえばオーソドックスな雰囲気ですが、古くささはゼロ。洒落ています。
黙役としてバルバロ付きの小間使いが出てくるのですが、これがチョコマカおもしろく動いて、大笑い!。これにはアイデアを感じました。
演出家のコメントがあったのですが、このオペラをよく理解し、本質を捉えていることが伝わってきます。「あなたの言う通り」と心の中で思いました。

こうした上映で、オペラファン増の期待大。すでにファンの方々にとっても、大変楽しめるものであることは間違いありません。今後続々の上映を望みます。
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公演最終日の鑑賞でした。
オペラに興味があって、今日がオペラ初体験の同僚と一緒。ありがたいことに同僚は数ヶ月前から大変楽しみにしていてくれて、期待に胸膨らませての鑑賞だったようです。

この作品は、ワーグナーの中ではコンパクトですし、音楽も分かりやすい。男性向け(同僚は男性)でもあると思って推薦。結果、「カッコいい音楽だ!やはり生は迫力が違う。次はリングを見てみたい」と、だいぶ気に入ってくれたようです。初めてのオペラでつまらない思いをすると、後へは続かないので、良かった良かった。一安心。

私の感想はというと、序曲の出だしから金管が不調、音が揃っていなかったので、「これは《さまよえるオランダ人》ならぬ《さまよえるオーケストラ》では…」と不安モードに(こんな言い方で申し訳ないですが)。
後半その不安は解消されましたが、不満は残りました。演出はセンスが良いとは言えませんが、この演奏には合っていたような。変にゆがめてしまう演出よりはいいと思います。今時珍しいほどオーソドックスでした。
エリック役のヴォトリッヒが印象的、切々とした歌がとても良かった!私がゼンタならば、迷わずオランダ人よりこちらに身を捧げます(^-^;)

この作品について思うことは、その時代=ロマン派の思想の流れにあるのかもしれませんが、「女性の自己犠牲による救済」というテーマが、現代にあってはどうもピンとこない気が。つまり、古さを感じてしまいます。まあ、ワーグナーの作品はこうしたテーマのものが多いですが。
ワーグナーの初期の作品なので、音楽的には前の時代を引き摺っているような感じを受けますが(以前聴いたマルシュナー《吸血鬼》が浮かびます)、やはり音楽はワーグナーのもの。十分人を惹きつける力があるものだと思っています。
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昨日にブリテン《アルバート・ヘリング》を鑑賞。
新国立劇場オペラ研修所の公演ですが、とても研修公演とは思えない質の高さでした。本国でも、なかなか上演されないような、マイナーなオペラだと思うのですが、こうしたものを取り上げたところにセンスの良さを感じますし、結果、見事な成果を挙げていたと思います。チームワークの勝利といったところでしょうか。音楽劇として、キャストの動きもよく考えられており、演出が冴えてました。舞台美術、衣装もこのオペラにマッチしていて、遊び心のある、なかなか洒落たもの。歌のアンサンブルもまとまっていて、よく練られたあとが窺えました。

そして「やっぱり、ブリテンのオペラはいい作品だ」というのが、私の感想です。ブリテンの最も有名なオペラ《ピーター・グライムズ》は、大変好きな作品ですが、楽しめるというよりも、心の奥底へ突き刺さって、痛みを覚えるような、重く圧し掛かるものがあります。ブリテンの視点というのは、弱者への意識というか、集団へ帰属しようと思っても、そこから外れてしまう、マイノリティーへの共感があるような気がして、そこに惹かれます。
この《アルバート・ヘリング》は、青年の成長物語といった趣。少々皮肉と風刺を織り交ぜながら、軽快なタッチで描かれた短編小説のよう。その後味は、爽やか。そして心にポッと灯火が点ったような暖かさが残りました。

ブリテンの音楽、悪いわけがありません(私は好き)。オケも良かったと思います。心に残ったのが、主人公のアルバートが、自分の人生を求める心境を歌う曲。「希う心」がそのまま音楽になっています、共感。
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ここのところあれこれとありまして、なかなか書き込めず、ほぼ一ヶ月振りの投稿となりました。舞台&音楽鑑賞は今年に入り《アンナ・ボレーナ》、J.S.バッハ《チェンバロ協奏曲》、ドゥアト《バッハへのオマージュ》、そして映画「マリー・アントワネット」(アントワネットやヴェルサイユには惹かれませんが、ラモーのオペラシーンがあるので…。アントワネットはグルックとの結びつきが強いのですが、こちらは全く出てきません。グルックはヴェルサイユというイメージではないのでしょう。ラモーに対抗した、ルソーのオペラも登場)

昨日は二期会の公演へ。若手中心のニューウェーブ公演(バロックオペラ)を除くと、4年ほど前の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》以来でしょうか。

《ダフネ》はシュトラウスの晩年に作られた、前衛的ではないものの、円熟さを感じさせる作品。私はシュトラウスの作品についての知識はあまりありませんし、作品も特定のオペラ以外はほとんど聴いていませんが…。
私の感じ方ですが、シュトラウスのオペラは後のものになればなるほどに、時代を遡って昔に戻っていくようです。時代背景とも関係しているのでしょうが、時代の先端、前衛を追い求めるのではなく、周りと調和しつつ、自分の世界を完成させていくような円満さを感じます。特に、最後のオペラ《カプリッチョ》は、本人の遺言的な作品。心に響くメッセージがストレートに伝わってくる、シュトラウスのオペラの中では最も好きな作品です。このオペラから作られたチェンバロ組曲、スコア欲しいです(弾きたい)…。でも見つからず。

今回の公演ですが、演奏については、シュトラウスの円熟さを表現し、このオペラの魅力を引き出していたようには、あまり感じられませんでした。波のうねりのように、大きくこちらに寄せてきたかと思うと、すーっと退いて行く…、そうしたダイナミックなうねりが無い。まるで津波のように押し寄せてくるばかり。これではうるさいだけになってしまいます。
シュトラウスのオペラで忘れられないのは、4年前にコンロン指揮で聴いた、パリオペラ座管の《サロメ》。うねりが素晴らしく、目から鱗でした。引き際のピアニッシモの響き…、これを日常的に聴いている人たちが本当にうらやましかったです。

そしてダンス、もっと身体自身の動きで勝負して欲しかったと思います(道具を使わず)。下半身の動きがあまり無いのは(メインダンサーも)、動きが限定=表現が限定されてしまう印象。ダンスでの身体表現には、やれることがもっとたくさんあるはずです。そして音楽との相関性が感じられない、つまり、音楽はシュトラウスでなくても、なんでもいいのでしょう。
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まる(ネコ)は今日、足を捻挫してしまい病院へ駆け込みました。ドクターから、「太りすぎ。3キロが適正なのに、4キロ以上。痩せないと駄目」とお叱りを受けました。そんなに太っているとは、全く感じていなかったのでショック。食事もドライフードでカロリー控えめにしていたつもりなのに…。今日から食事制限開始です。急に減らすとよくないそうなので、徐々に。かわいそうなことをしました。足はひどくなさそうなので、ホッとしています。

まるも、やっと落ち着いて眠りに。その後、NHKでヴェネツィアの紹介番組が放映されていたので、見ていました。ちょっとした旅行気分に(ここには行ったことが無いので嬉しい)。
繁栄を誇った軌跡を、その迷宮のような都市風景を織り交ぜながらの解説で、1000年にもわたる歴史に想いを馳せることができました。ラグーナの広がりも紹介されていましたが、華麗なヴェネツィアの都市とは対称的な静けさを見せ、なんとも不思議な所です。

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←一昨年あたりに出版されたものですが、ゴルドーニについても触れられています。昨年ハイドン《月の世界》の台本作者として接し、印象深かったのですが、この文献によると、軽薄でただ当たりを取りたい一心で書き飛ばしていく傾向の作家とみなされています。




「啓蒙主義時代のフランスとは全く相容れないけれども、同時代のヴェネツィアの人々の心のありようを代表するものといってよい。であるからこそ、彼の役割はまさにペンにおけるカナレットだったのである。彼は18世紀ヴェネツィア社会を克明にスケッチした記録者で、しかも鋭い観察眼で見抜いていた。…しかし彼には18世紀のヴェネツィアで確立した時代の精神というものがまるで存在しなかった。気まぐれな民衆のどたばた傾向しか目に入らなかった。そのため祖国を失い、フランス宮廷の寄生虫で終わらなければならなかった。リアルト橋のたもとのゴルドー二広場に立つ像は、その孤立を象徴している。」
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今年はコルンゴルトが亡くなってちょうど50年目とのこと(1957年没)。10年前は生誕100周年だったのですが。
写真は2004年ザルツブルグでの《死の都》の舞台(綺麗に載せられずごめんなさい)。デッカーの演出が大変よくできたもので、忘れられない公演の1つです。デノケのマリー=マリエッタ、凄みの利いた熱唱、素晴らしいの一言でした。私はコルンゴルトが、特にこのオペラが好きで(このオペラの中の《リュートの歌》、名曲)。これを聴くためだけにザルツまで行ったようなものでした…。
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北とぴあでの鑑賞でした。
このオペラ、まずゴルドーニの台本がすごいと思いました。名前は有名ですが、実際の作品には初めて接したことになります、度肝を抜かれました。この笑いのセンスというか、世界の捉え方、モリエールと合い通じるものがあるのではないかと思います。イタリア演劇の改革者というのも、深くうなづけました。
この《月の世界》、コメディア・デラルテの精神ー世界のパロディ化、価値観がひっくり返るというところを、もうそのまま表現していますね。来年は生誕300年にあたり、日本でもゴルドーニ関連のイベントが企画されているとのこと、ぜひ他の作品にも接してみたいと思います。

この機知に富んだ台詞に付けられたハイドンの音楽が、これまたぴったりはまっていて楽しい。モーツァルトの師とも言えるハイドン。モーツァルトのように、人の心の奥底までも、見てはならないようなものまで表現してしまう深みは感じられないのですが(時代背景もあるでしょうが、もしくは私にハイドンの音楽が分かっていないからそう感じるのか)、とても上質なものを感じます。そんなにかしこまっていなくて、居心地の良い、もてなし上手のレストランに来た感じ。作品として、よくできていると感心しました。

演出は、この作品の楽しさを変な方向へゆがめてはいないようでしたが(あの悪夢のような《セルセ》を思い出します)、流行を追った、安易な方法で作品の印象までもチープにしてほしくありません。この作品は演奏会形式でも、十分に楽しさが伝わるものと思いました。

オケは、以前のラモーではフランス・ロココの雰囲気が感じられませんでしたが、今回は演奏しやすい曲だったのでしょうか、悪くはない印象です。キビキビとした溌剌さ、鋭さが加わると、ピリッと薬味が効いて更にブッファの醍醐味を味わえたように思えます。歌手の方、森さんは守ってあげたくなるような可憐さですね、ひたむきな歌唱が心に残りました。野々下さんは安定した歌唱、もっとも重要なブオナフェーデ役のベッティーニ、芸達者振りに拍手です。

こうした公演を、よくまあ北区独自で企画運営していると感心。こうした内容のもの、新国立劇場も見習ってほしい…。
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今日は仕事が終わった後に「いなごの会」。同僚と囲碁、まだ全然ダメです…。対局まではまだまだ遠い道のり、でも楽しい。

ラモー《レ・パラダン》を観た次の日、ペルゴレーシ《スターバト・マーテル》を聴きに行ったのですが、この偶然の繋がりに、ブフォン論争が浮かんでしまい、なんだか時を越えた運命の悪戯のようなものを感じてしまいました。私が勝手に思い込んでいるだけですが…。

いったいラモーは《レ・パラダン》を通して、何を言わんとしていたのだろう、何を表現したかったのだろう…、それが私の中で曖昧模糊としています。《レ・パラダン》が上演されたのはブフォン論争が吹き荒れた後なので、それからの影響も考えられるのでしょうが…。確かにイタリア・ブッファの形式に似ています、そのパロディということなのでしょうか。そして最後に歌われる「自由バンザイ」、王侯貴族から市民へとパワーが移り変わっていく流れが感じられるようにも思えます。

なんだか、あれこれと考えてしまいました。その当時にどう受け取られたのかということは、今となってはどうでもいいことかもしれません。重要なのは、ラモーの音楽が現代でもバッハやヘンデル、モーツァルトなどと同じように生き続けており、現在でも大いに楽しむことができるということなのでしょう。今回の《レ・パラダン》のような素晴らしい舞台が上演されたことを、ラモーはきっとあの世で喜んでいるでしょう。
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