今年もこの季節が巡ってきた。~春宵一刻値千金 花有清香月有陰~
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「春の夜は、ひと時が千金にも値するほどだ。花の清々しい香りに、月は朧…」。能「西行桜」の艶やかな詞章(蘇軾の詩)が、想い起こされる夜桜の見物へ。見事な六義園のしだれ桜。数年前に比べ、随分と大きく、華やかになった感が。
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今がちょうど見頃。ライトアップされた桜の見事さは、息を吞むほどで、見物客も長蛇の列。大勢が桜を取り囲み、身動きできないほどの混雑。
「花見んと群れつゝ人の来るのみぞ あたら桜の咎には有りける」と西行の歌にあるが、昔も今も桜を愛でる気持ちに変わりなし。
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いつまでも見惚れていたいが、そうもしていられず、六義園を後に。
「待てしばし 待てしばし 夜はまだ深きぞ。白むは花の影なりけり」
「夢は覚めにけり 夢は覚めにけり 嵐も雪も散り敷くや」
…と、西行桜に登場する桜の精が、後ろから囁きかけてくる気がした。
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前回の記事から、カラスの《マノン・レスコー》について載せたことで、思い出したこと。
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昨年末の台北で、一大カルチャーセンターである『誠品書店』(敦南店)へ寄ったのだが、入った瞬間、カラスの巨大ポスターと遭遇。入り口すぐ正面なので、当然のことながらとても目立つ。
カラスのベスト盤の広告で、「永遠的歌劇女神」とサブタイトルが…。漢字だと非常に分かりやすい(^^;)
ちょうどカラスのCDキャンペーン中で、日本でも同じものが発売されていたと思う。手に取る人も多く、なんだか嬉しくなってしまって、思わず写真をパチリ。
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空港からホテルに向かう道には、ずーっとゲルギエフ&ラン・ランのコンサート広告が道路の電灯に掲げられていた。クラシックファンとしては、宣伝に力が入っているなぁと感心しきりだったが、さらに上を行く宣伝が…。
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地下鉄に乗ると、全ての車両がこの広告で埋め尽くされていた。
国立劇場での歌劇《納克索斯島上的阿麗雅德妮》=《ナクソス島のアリアドネ》。
…いくら漢字といっても、初めは分からなかった(@@)。
台北市立交響楽団の演奏で、アリアドネは日本でもお馴染みのイレーネ・テオリン。指揮はステファン・ゾルテス。日本の新国立劇場と同じような上演形態(外国人キャストとの混成)。
時期さえ合えば、当然「観たい!」となるのだが、残念…。

国立劇場=國家戲劇院はまさに中国式の建築で、一見の価値あり(紫禁城っぽいかも)。いっそ日本の国立劇場も姫路城のように…(すみません、これはやりすぎでしょうね。歌舞伎座もありますが、日本人にとってそうした感覚は、あまりピンとこない)。
台中には新オペラハウスがこけら落とししたばかりで、こちらは超モダン。いまやアジアのクラシック音楽も熱い。今度訪れる際は、観光も兼ねて行ってみたいもの。
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プッチーニの《マノン・レスコー》、実際の舞台に接するのは実は初めて。もちろん映像やCDではあれこれと観たり聴いたりして、中でもカラス&ディ・ステファノによるものは、それこそ何度聴いたことか…。あまり思い入れがあると、かえって観る前から舞台に対しての不安感が増したりして、何のために聴きに行っているのかとも感じてしまいますが…。

どの曲でも同じだと思いますが、ともかく始めが肝心。特にオペラでは、観客を一瞬のうちに、その“うそ”の世界に惹き込まなければなりません。今回オケについては、それは成功していたと思います。

一幕の弾むような、若々しい、青春の、恋の季節。初々しい恋の高揚感が匂い立ちます。デ・グリューのアリアがまさにそう。「ああ、若さって、初恋ってこういうものだ…」と感じさせる音楽に、一幕目から胸が一杯に。
その初々しい恋の季節から醒め、現実と恋の情熱の板挟みとなる二幕。ここでの二人のデュエットは、初恋を通り過ぎた男女の、かけひきを含めた情熱的な恋愛が描かれます。激しく美しい、そして官能的なデュエットには息が詰まるほど。
そして、二人の悲劇を予告するような、溜息に満ちた美しい間奏曲。三幕では一転して、この恋ゆえに囚人となりアメリカへ流される二人、最終幕でついに荒野で息絶えるマノン。ここでは、お互いを強く求め合いながらも成就できぬ狂おしいばかりの恋に溢れています。叶えられぬ恋の行き着く果ては、日本で言う「心中もの」に近いものとなってしまう…。

現実の世界では、このように恋愛を貫くというのはあまりにもかけ離れたものでしょうが、そこにこそ恋愛の本質があり、それこそがこの物語(原作であるプレヴォ著『マノン・レスコー』)が現在にまで生き続けている理由でしょう。そうした想いがなければ、果たして恋していると言えるでしょうか?
プッチーニの才能の炎によって、その恋の情熱が見事に表現されているところに、とても胸打たれるのです。特に、二人が社会的に転落していくのに比例して、いやがおうにも愛の純度が高まっていくところは、素晴らしいとしかいいようがないほどの表現力だと思います。

その音楽に演出が寄り添っていたかどうかは…、一幕目の眩いばかりの青春の若々しさから、二幕目の退廃感と官能の愛、三、四幕目の悲劇への転落とこれだけ幅があるのですから、その流れに乗ってほしかったと…(ストレーレルに師事されたということで、納得)。
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プッチーニのオペラの中でもことさら好きな作品の一つですが、上演機会が少ない作品だけに、以前から楽しみにしていました。
プッチーニの舞台自体が、私にとっては久し振りだったのですが、今回は「ああ、”オペラ”を観たな…」という実感が久々に湧き上がりました。
それだけ、我を忘れるほど、舞台に自分が吸い込まれていったということなのでしょう。それはその音楽があってこそ…プッチーニの魅力を、改めて感じさせられました。

現在、プッチーニのオペラは大変人気があって、それこそ世界中のオペラハウスでかけられない日は無いと言ってもよいのではないでしょうか。そして、オペラの入門編でもよく取り上げられるほどの分かりやすさ。
旋律と台本が上手く融合され、聴衆の情感にストレートに訴えかけるドラマが巧みに創り上げられていることが、理由として挙げられるのでしょうが、それゆえプッチーニの作品が大衆的=通俗的であるという認識は全く異なったものであると思っています。

ドビュッシーの言葉が思い浮かびます…、プッチーニのオペラには、その言葉が当てはまるのではないでしょうか。

「芸術というものは、"うそ”のうちで最も美しいうそです。…一般大衆も、エリートも、忘我というものを求めて芸術に集まってくるのではないでしょうか。忘我、これまた“うそ”のもう一つの形式でしょう。」

「音楽は謙虚に人を楽しませることにつとめるべきです。この限界内にとどまってもなお、おそらく非常にすばらしいものが期待できます。極端に複雑なものは、芸術と相容れぬものです。美は感じとれるものでなければなりませんし、美はわれわれに直接的な悦びを与え、われわれがそれを捉えるのに何らの努力をせずとも、こちらを否応なしに納得させ、あるいはわれわれのうちに忍び込んでしまう、というのでなければなりません。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ、たとえばモーツァルト。大芸術家とはそういうものです。」

…公演自体の感想までの前段階が長くなってしまいました。それはまた次回に。
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