ヴェネツィア…。それは今も昔も人々の憧れを掻き立ててやまない、煌めく水の都だ。幻想的な美しさに満ちた「アドリア海の真珠」から生み出されたバロック時代の音楽は、ヴェネツィアというイメージにふさわしい、艶やかさと煌めきを持ち合わせている。でも、ヴェネツィアが持っている世界というのは、それだけではないはずだ。須賀敦子さんのエッセイにもあるように、ヴェネツィアは演劇性と虚構とが入り混じった、そう、仮面こそがふさわしいカーニバルの町でもあるのだ…。
 
 ベルリン古楽アカデミーによるヴェネツィア・バロック・プログラムは、まるでカーニバルのように、様々に移り変わるその仮面を次から次へと鮮やかに見せてくれ、魅力的だった。
 ヴィヴァルディ《弦楽のための協奏曲》で見せてくれたのは、まさに水面にまぶしくきらめくヴェネツィア。その輝きに、うっとりと身を任せれば、現実を忘れてしまう…。
 カルダーラ《我らの主、イエスの受難》では、宗教心の篤い、信心深いヴェネツィアが顔を出す。ここでの重厚さ、対位法が際立つ曲においての表現力は、さすがのアンサンブルだと思わされる。
 アルビノーニの抒情性は、さながらゴンドラに揺られながら運河を進むような心持ち…。マルチェッロの哀愁は霧にかすむ幻想の中のヴェネツィアだ…。
 そして、アンコールのヴィヴァルディのチャッコーナ!ジャズ風アレンジで、さながらカーニバルのクライマックス、どんどん熱を帯びていき、まるで人々が踊りまくるような熱狂の渦の中で幕が閉じられた。これには驚き、観客も皆大喜び。アンコールを含め、なんともモダンなヴィヴァルディを聴かせてくれて、このアンサンブルにしか出せない色合いだろう。通奏低音がガッチリと機能しているのが(バロックでの要だ)、私の好みなので、そこがバツグンなのは嬉しい。
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 先日、ベルリン古楽アカデミーの演奏で聴いたC.P.Eバッハ《オーボエ協奏曲》は、フリードリヒ大王の宮廷楽師時代に作曲されたもの。大王の好みも反映されているのだろう、優雅で華やか。宮廷の雰囲気と呼応している。
 画家メンツェルによる「サンスーシ宮殿におけるフルート・コンサート」(大王がフルートを演奏している)がよく知られているので、ベルリン時代の曲を聴くと、その画とサンスーシ宮殿がセットで脳裏に蘇ってくる。
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 昨年サンスーシ宮殿を訪れた際には、まさにロココ全開で腰が抜けてしまったが(^^;)、出口にあったのはフリードリヒ大王の肖像画。ん?なんだかウォーホルみたい??と思ったら、まさにそう…。ロココからいきなり現代に。でも違和感の無いこの感覚、好き。ピンクが効いてる(宮殿内もピンクやら黄色やら…)。
 ウォーホルの作品は、ベルリンのハンブルク駅現代博物館にコレクションがあり、たくさん観た。有名な作品しか知らなかったけれど、他にも洒落てセンスの良い作品がたくさんあるんだな、と。
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 今回の来日プログラム1回目は、J.S.バッハとC.P.E.バッハを交互に組み合わせたもの。加えてモーツァルトもあり(J.S.バッハ平均律の編曲)、私にとっては最高のプログラム。演奏機会の少ないC.P.E.バッハが真打ちということで、期待に胸膨らませていた。今年初めに聴いたC.P.E.バッハのチェンバロ&ヴァイオリンのソナタも、なんともギャラントで素敵だったなぁと…。

 そして、よくぞ、C.P.E.バッハをやってくれた!と心の中で喝采を叫んでしまうほど、期待通りの「ベルリンのバッハ」だった。オーボエ協奏曲に、《6つのシンフォニア》第5番&2番と計3曲。さすが力を入れているだけあって、溌剌として、生気に溢れたC.P.E.バッハ。その魅力が存分に伝わってくる演奏で、楽しかった。ここでのアンサンブルの見事さは言わずもがな。
 ハイドンは自分の師といえるのは彼だけだったと公言していたそうだが、影響は明らかだ。特に《6つのシンフォニア》は斬新。機知に富んだ、こちらをハッとさせるような意外性のある展開で、人を楽しませてくれる。才気溢れるといった感じ。また、甘やかな緩楽章の美しいこと…。

 そう、エマヌエル(C.P.E.バッハ)の音楽は、父とはあまりにも違い過ぎる。様式の違いはもちろんだが、もう、音楽というものの意味が根本から異なってしまっていることが伝わってくる。時代は変わったのだ、親を乗り越えたのか、もしくは否定したのか…。
 当代一の人気を誇ったエマヌエルも、時代が進むと手厳しい評価に晒され、父が世間から忘れ去られたように、自らも同じ道をたどることになる。時代によって、評価が様々に変化していくことを実感させられる…。父の音楽は、今や揺るぎない地位を確立しているが、息子の音楽も(フリーデマンやクリスティアンも含めて)再評価がさらに進んで、また実演に接する機会を楽しみにしたい。
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 今日のパリからはもう得られそうにない、昔のパリの印象を味わってみたいとお思いになるなら、大祭日の朝、たとえば復活祭とか、聖霊降臨祭とかの夜明けに、全市をひと目で見わたせるような、どこか高いところにのぼって、暁の鐘声に耳をかたむけられることをおすすめする。―たしかに、これは耳をかたむける価値のあるオペラだ。
―いま聴くこの鐘の音は、パリの歌声なのである。だから、この鐘楼たちのトゥッティ(総奏)に耳をかしていただきたい。―この音楽のるつぼ、高さ百メートルの石のフルートの中でいっせいにうたうこの一万もの青銅の声、オーケストラそのものとなってしまったこのパリ、嵐のように鳴り響く交響曲、こうしたものより豊かで楽しげで、金色燦然たるものを、何かこの世でご存じかどうか、おっしゃっていただきたいのだ。
       ユゴー作『ノートル=ダム・ド・パリ』辻昶・松下和則訳
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 パリの、そしてノートルダムへのオマージュに満ちた『ノートル=ダム・ド・パリ』。私がその小説に惹かれたのは、ウィーンで活躍した作曲家、フランツ・シュミットのオペラ《ノートルダム》を通してだった。小説が基になっており、オペラ全体を貫くモチーフ(間奏曲として知られている)の旋律が、なんともいえない切なさで好きだ…。
小説自体がまさにオペラ的なストーリーなので(ロマン派ですから)、曲が合わさるとオペラのドラマチックなこと、このうえない。昨年、実際に間奏曲を聴くことができたのは嬉しかったが、まさかベルリン・フィルで聴く日がこようとは思わなかった。

 以前に全集で接したときは、とっつきにくい印象だったものの(全部読んだ記憶がなく、おぼろげ…)、最近文庫版が出たので再読すると、本当に魅力的。ユゴーはストーリーテラーとしても見事だが、うっとりするような詩的表現がいくつもあって、さすが大詩人だと…。
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プティが振付けた《ノートルダム・ド・パリ》の公演へ。一度実際に観たかったので、念願叶って…となる。
ヴィクトル・ユーゴー(原作)によって描かれるストーリーは、中世をそのまま映像にして目の前で見せてくれるような、生き生とした感覚があって大変魅力的だが、この作家が抱く思想の表現も、芸術性の高いもので圧倒される。この文豪を生み出したことを、フランスは本当に誇ってよいと思う。
この物語は、私もそうであるように、現在に至るまで人を惹き付けてやまないのだろう。この原作を基とした映画やミュージカル、ディズニーアニメからオペラと作品が様々にある。

原作の結末は死を持って終わるという、悲劇的なもの。プティの台本・振付は原作に沿った展開で、舞台の登場人物を中心人物の4人(エスメラルダ、カジモド、フロロ、フェビュス)に絞ることで、ストーリーを凝縮させ、スピーディーに悲劇を展開していく。
そして、真の主人公ともいえる“ノートルダム・ド・パリ”!このゴシック教会の鐘の音が響き渡るパリを、中世の人々がざわめくパリを、プティは洗練された振付(サン=ローランの衣装に合っている)で上手く見せてくれていた。

このバレエ団の公演に接するのは、たしか《ピンク・フロイド・バレエ》以来だ(懐かしい…)。
エスメラルダを踊ったニコレッタ・マンニ(ミラノ・スカラ座プリンシパル)が、本当に美しいというほかなく、天使のようだった。その優美さに、もううっとり…。衣装は白とボルドーの色で、エスメラルダだけど、緑じゃないんだと(私はちなんでエメラルド色の服を着ていったのだけど…、どうでもいいことですね)。
もちろん、カジモドの菊池さんも魂が憑依したような、白熱した踊りで、迫力満点。素晴らしかった。
群舞は統一された独特のモチーフのある動き。モーリス・ジャールの音楽や衣装を含め、具体的な中世世界の表現というよりも、あくまで抽象的。《カルミナ・ブラーナ》の雰囲気(あそこまで猥雑さはないが)を思い出した。
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ギリシャ悲劇を基とし、母殺しというおぞましいタブーを描いたオペラ《エレクトラ》。
この作品が持つ破壊力は、初演から100年経ってもなお健在だ。「愛は殺すのよ、愛を知らなければ死ぬことも無い…」と、エレクトラが叫ぶように、柔な常識的意識を吹き飛ばし、善悪の彼岸を仰ぎ見るような感覚を引き起こす。
その主題に沿うように、ホフマンスタールによる台詞は、生理的嫌悪をもよおすような比喩に満ち、R・シュトラウスの切り裂くような音楽が迫ってくる。ここまで生々しい「身体=ボティ」というものを感じさせるオペラは、滅多にない。そう、肉親というのは、何よりもます「身体(血)」を通じて繋がっているものだ。ホフマンスタールの感覚は正しい…。

復讐を果たしたエレクトラはいう、「幸福という重荷を背負ったものにふさわしいのは、黙って、踊ること!」。そして、クライマックス。エレクトラの中から湧き出した歓喜の舞踊の音楽が流れる。しかし踊ろうとしても、糸の切れかけた操り人形のようにぎくしゃくとして、体がいうことをきかない。そのことに愕然とするエレクトラ。その脇を、母を殺めたオレストが廃人のように通り過ぎていく…。
シェローの演出は、閉ざされた無機質な空間の中で展開され、息苦しくなるほどの圧力で、緊迫するドラマを造りあげていた。

そして、私にとってのお目当てはサロネンの指揮。
昨年、フィンランドのテロ・サーリネン・カンパニーによるダンス公演を観たが、曲は全てサロネンによるもので、これが良かった!
《フォーリン・ボディーズ》をはじめ3曲。この曲名からも分かるように、サロネンも身体から生まれる「ダンス」というものに意識的なのだろう。こうした曲を作る指揮者が、どう《エレクトラ》を表現するのかなと…。この作品自体の迫力と凄みは、十分すぎるほど伝わってきたが、ごちゃごちゃした印象にならず、すっきりとした鋭さ、そして洗練された響き。R・シュトラウス独特の美感も保たれている。
生の舞台で、こうした《エレクトラ》を聴けたらな、と思う。
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