演奏が終わった瞬間、本当に2時間半という時が流れたのだろうか?と感じた。まるで異空間に身を置いたような感覚。音の一つ一つに「気」が漲り、最後までピーンと空気が張りつめたような緊張感を、こうして演奏者、観客とともに分かち合える体験は滅多にないだろう。
 
 それは諸行無常の響き―とも呼びたいような、私にとっては自然と人間の対比を感じさせるものだった。人は死すべき存在であること、それは自然の摂理であるということを改めて突き付けられたようで、辛くもあった。でも、それが真実だ。

 スカルダネッリ(ヘルダーリン)による詩の響き、そして架空の日付が、時の流れを歪ませていく。
 音楽の流れは伝統的な書法(カノン)やコラールに基づいているけれど、東洋的な響きを強く感じる。フルートは能管の響きのよう、日本の「りん」(仏具)も使用され、ピアニストが触れるのは鍵盤ではなく、弦そのものだ。テープを使用したり、ペーパーを破くなど、現代音楽ではお馴染みの奏法ともいえるけれど、それが必然性を伴った音としてこちらに届いてくるのは、凄い。
 自然は宇宙ともいえるものだな、と。そうした広がりに身を浸すことのできた一時。長く記憶に残りそうだ。

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 西洋のシノワズリから、日本の中国趣味(中国から学んだ和様水墨画)の世界へ。日本の水墨画といえば雪舟を思い浮かべるが、雪村は1489年~1492年生まれと推定されており、雪舟より一世代ほど後になろうか。

 時代は戦国。雪舟に私淑し、一度も京に上ることなく東国各地で活躍した。だからこそ、このように個性的な画風が生まれたのだろうか。中国の牧谿や玉潤の画にも学んでいるが、学ぶ前からすでに彼特有の激しさや躍動感が表れている。《風濤図》の風に煽られる竹や木々の描写は、初期から彼のシンボル的な特徴だな、と。
 60代過ぎからが画業のピークで(!)、展覧会ポスターにもなっている《呂洞賓図》もこの頃の作品とか。仙人は不動なのに、周りに沸き起こる風の上昇ループの力強いこと!そのパワーがこちらにビンビン伝わってくるのは、やはり凄い。ここまでくると、もう劇画(漫画)ではないかと思えてしまう。吹き出しを入れても違和感なし。

 後世に与えた影響は大きく、尾形光琳も私淑していたそうだ。雪村の画印まで持っていたとは、よほど好きだったのだろう。雪村の得意とした布袋図や仙人図などを参考にしたと思われる作品もあったが、光琳《紅白梅図屏風》と、雪村《欠伸布袋・紅白梅図》の対比展示には、意外性にびっくり。確かに似ているけれど、ではあの川は布袋様になるのだろうか…。

 雪村の布袋様は、得意にしていただけあってとってもいい感じ。まあるくて、暖かくて、思わず笑みがこぼれてしまう。また違った一面が垣間見えて、ほっこり。布袋様はヴェネツィアの博物館でも仙人と同様目立っていたので、こちらを(上手く撮れず…)。
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 ポツダムからヴェネツィアのシノワズリへ。こちらは1700年代博物館「緑漆の間」。金の装飾で彩られた緑色のキャビネットが目を引く。その上に置かれた陶人形は、なんだか異様な迫力。
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 思わず近くに寄ってまじまじと眺めてしまう。リアルな仙人達、このキャビネットにはぴったりかな。
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 東洋風(古伊万里っぽい)の茶器。他の間にも東洋趣味の陶磁器が山ほど。こんなにまとめて見たのは初めてかも、目の保養。

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 映画《メットガラ》(メトロポリタン美術館)での「鏡の中の中国」展では、シノワズリのドレスが登場していた。
 ロココに溢れたサンスーシ公園内の中国館は1754年から57年に建てられたもので、中国趣味(シノワズリ)を建物ごと具現化したものだが、一昨年に訪れた際にはその奇抜さにちょっとびっくり。
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 サンスーシ宮殿前の大階段を降り、噴水のある広場を過ぎて道なりに少し歩くと到着。入場料は3ユーロ。この中国館自体はとても小さいが、この黄金色の彫像がぐるっと建物を取り囲んでいる(キラキラ眩しい...)。東洋と西洋がミックスされた不思議な感覚。
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 中もこじんまり。丸天井画も幻想中国。猿が牧谿猿のように見えなくもないな、と。布袋様的人物と猿の組み合わせは他にも多く、鳥は鸚鵡で色鮮やか。壁紙&家具は柔らかなレモンイエローで、茶器のパープルが映えていた。
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 世界的に有名な美術館や劇場、芸術家を取り上げたドキュメンタリー映画は今までにいくつか観ているが、この《メットガラ》は中でも出色の出来!面白かった。
 舞台はNYのメトロポリタン美術館。「鏡の中の中国」展(中国をテーマとした服飾展)と、それに絡めた《メットガラ》と呼ばれるセレブパーティ開催までの経緯を描いている。ヴォーグ誌編集長アナ・ウィンターの采配ぶりを目の当たりにできるのも面白いけれど、見どころはキュレーターのボルトンが「鏡の中の中国」展にこぎつけるまでの獅子奮闘ぶり。
 ここで繰り返し問われるキーワードが「ファッションは芸術か?」。芸術といえば絵画、彫刻、建築を指すものだという意見が映画でも出てくるが、生活に密着しているものこそ、美しくあるべきだし、美しくあってほしい。
 それがアートに発展していくのは当然だし、服飾はもちろん器や家具なども同様だ。日本にも芸術性の高い伝統工芸品が山ほどある。私は香りが好きだが、香水だって芸術品と呼べなくはない。特にファッションや香水は、ファンタジーに溢れていて、身にまとった瞬間に、何か別な世界が開けていくように思えることも…。
 また、ファッションには知性が必要。映画でのデザイナー達の見事なドレスを目の当たりにすると、これが芸術でなくて何なのだろうか、と。
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 シノワズリのドレス。この辺りの時代から「鏡の中の中国」は始まるのかな。ポツダム・サンスーシの中国館を想い起させる、これはまた他の機会に。

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 喪失に伴う痛みと再生を驚くべき寓話性で描き上げた、なんという美しい映画!思わず涙が溢れてしまった。
 監督はナポリ出身で、まだ30代のエドアルド・デ・アンジェリス。パオロ・ソレンティーノ監督がアカデミー賞のイタリア代表作品に強く推薦したほか、ダヴィット・ディ・ドナテッロ賞の最多6部門で受賞したとのこと。それも納得の作品。
 
 舞台は海辺の貧しい田舎町(撮影場所はガゼルタ。寂れた感じの描写も素晴らしい)。移民も多く、貧困はすでにありふれたものとなっている。そんな町で、統合性双生児のヴィオラとデジーの姉妹は、まるで珍しい見世物のようにパーティーなどで歌を披露し、家族のために生計を立てている。
 もうすぐ18歳になろうとしている二人の自我がぶつかり合うのは当然で、デジーは分離手術をして〝普通”になることを強く願っている。しかし片方のヴィオラはあまり乗り気ではない。いや、デジー無しでは生きてはいけないという不安の方が強く、なぜ分かれる必要があるのかと反発する。そんな二人(二人で一人ともいえるけれど)が、分離手術を受けるために家出を...というストーリー。

 主演の二人は実際の姉妹だが、初めての演技とは信じられない!ティーンエイジャーらしい憧れと無邪気さが溢れ、明るい歌のシーンから、絶望的な境遇での思い詰めた場面まで、実に自然で胸を打つ演技。そして、より二人の無垢さを際立たせる両親、神父を演じた俳優たちも見事だった。もちろん映像も美しい。
 また、この監督の次回作を是非見たい!

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 アンコール上映されたマルコ・ベロッキオ《夜よ、こんにちは》。アンコール上映だが、今回の映画祭で観た中ではマイ・ベスト。
 エンディングで流れたシューベルト《楽興の時(有名な第三番)》の明るさと、殺害されたはずのモーロ元首相が解放されて街を歩いていく姿が、まるで映画の題名のように矛盾を強く感じさせるもので、印象に残った。
 この映画で描かれているのは、実際に起きた「赤い旅団」による元首相モーロ誘拐殺害事件(1978年)。「赤い旅団」のテロリストたちの、誘拐監禁から殺害に至るまでの経緯を追っていく。このテロリストたちによる論理は、現在からみればいいようのない不可解さがある。でも、それは現在のテロリスト達とも似てはいないだろうか?
 ベロッキオは、ただ史実を描こうとしているのではなく、映画ならではの技法を駆使して、夢という形でもう一つの真実を描こうとしているところ、これが素晴らしかった。こうした夢と現実の交差の描き方が、私はとても好き。緊迫感のあるカメラワークも秀逸。
 イタリアの歴史を変えた事件でもあるので、これは見た方がいいと勧めてくれた知人に感謝。

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 トリノが舞台と聞いて、観たくなってしまった作品。
 上映後の監督への質疑応答で「なぜ、ミラノでもフィレンツェでもなく、トリノを選んだのか?」との問いに「始めは舞台をパリにするつもりだったが、その計画が頓挫したので、パリに雰囲気の近いトリノを選んだ。イタリア人にとってトリノは魔法のような街。光が独特で、この映画ではトリノの街自体が主役にもなっている」と。
 映像では、トリノの晩秋を彩る黄金色が映え、この街がまさに主役級の存在を放ち、情感を盛り上げていた。思っていたより(やはりというか)大きな都市。主人公たちを取り巻く人間関係も、フランス人や東欧出身など多様性がある。
 物語は「すべての女性に捧げる」という監督の言葉から窺えるように、女性に対する暴力(DV)をテーマにしているが、暴力を受けるのは女性だけではない、それは弱いものへ、弱いものへと流れる(子供や移民まで)。そして暴力も様々な形をとっていく。そこから立ち直るのは、容易なことではない。

 主人公である母親は夫のDVから逃れるためにローマからトリノへ移り住む。13歳の息子と共に。知らない土地(文化)に住むことも容易でないことは明らか。全てを捨てマイナスの状態から生活を再構築していく過程が、丁寧に描かれている。人は人によって傷つけられるけれど、人を救うのもまた人であると再認識。

 マルゲリータ・ブイは、生活に疲れた50代女性という設定なのでノーメイクで出演。抑えた表情のなかに感情を滲ませ、リアリティのある演技。そして素晴らしかったのが13歳の息子ヴァレリオを演じたアンドレア・ピットリーノ!天才じゃなかろうかと思った。

 印象に残ったのが音楽。フランチェスコ・チェラージによるもの(先月聴いたエイナウディと似ている)で、ミニマル・ミュージック的だが、この作品にとても合っていた。監督によると、自身が音楽好きということもあって、気を配っているとのこと。今回も、俳優に音楽を聴いてもらいながら演じてもらったそうで、だからああした演技が出るのかな、なるほど。

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