音楽との運命的な出会いというのは大げさかもしれないが、そうしたものを今までに何度か体験してきた。メシアンもそのうちの一つだ。曲を実際に聴いたのは、ここ最近のこと(昨年のコンサートにて)。
 そのときは、メシアンの曲が目当てではなかったが、プログラムに入っていた《世の終わりのための四重奏曲》に、強烈な印象を受けた。これほどまでに生と死の境目が限りなく薄くなっていくような「彼岸」の世界を感じさせてくれる体験は初めてで、それから、メシアンは私にとって特別な作曲家の一人となった。この世界は、実際に奏でられる音を聴かなければ、体験できなかったかもしれない。そう、メシアンの音楽は「聴く」というよりも、「体験(その響きの世界を身体全体で感じる)」として捉えるのが、私にはぴったりとくる。

 今回は3回目のメシアン。
 現代音楽に共通する部分かもしれないが、メシアンの曲は伝統的な音楽構成の要素を否定しながらも、音楽の持ちうる力—時を操作しようとする意思をとても強く感じる。時を流れゆくままにさせるのではなく、時と空間を歪ませて(もしくは広げて)、現世ではない別次元の世界に引き込むような…。
 今回の〈彼方の閃光〉では、確かに永遠を感じさせるものが聴こえていた。「私が彼岸を、永遠を信じているからです」とメシアンは語っていたそうだが、そうでなければ、これほどまでの説得力を持つ音楽は生まれてこないだろうと思う。
 武満さん曰く、メシアンは大変な理論家で、「かなり数理的な操作で曲を作っているようだけど、実際には、直感的に作曲していたんだと思うんです。」(『武満徹・音楽創造への旅』立花隆著 より)

 〈彼方の閃光〉の第5楽章〝愛の中に棲む”は、とても不思議な感覚、何か大いなるものの胎内にいるような安らぎと陶酔感だった。第8楽章〝星たちと栄光”で奏でられるコラールは、声楽は入っていないのに、トゥッティの壮大な響きに包まれ、生きとし生けるもの全てが天に向けて謳いあげているような感覚で、身震いしてしまいそうに。
 私にとってはまだまだ未知のメシアン。今後も体験する機会を楽しみにしたい。

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 カ・レッツオーニコと同様に、ロンゲーナが手掛けたサンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂へ。
 「サルーテ」は健康という意味、乾杯の際にも「サルーテ!」と言うので覚えやすい名前。この聖堂はヴェネツィアの景観には欠かせないもの。
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 アカデミア橋から見る聖堂の姿は、まさにヴェネーツィア。外観は白いイストリア産大理石で作られ、聖母の被る王冠を表しているそうだが、本当に優雅な女王の風情。

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隅田川沿いの梅がちょうど見頃に。薫りに包まれる感じ。
 
 時はまさに梅の頃、能《梅枝》の鑑賞へ。
能について何か言うならば「100回観てから物申せ」とは白洲正子さんの言葉だが、やはり何かしらの感想を残しておきたいなと。オーディオガイドでの「歌舞伎は観て楽しむもの。能はやって楽しむもの」というのも、よく分かるが、日本文化のエッセンスがギュッと詰まったこの音楽劇は本当に魅力的で、それはやはり自分が日本人であるということに尽きるのだろう、身に沁み込んでいく親密感があり、故郷に戻るような懐かしさと安堵感を与えてくれる。

 音楽劇なので、その音に身を浸すのも別世界に誘われる体験なのだが、今回はシテの高梨さんの謡が、声自体にも深みがあってまさに「幽玄」な響き、うっとりしてしまった。どうしたら、人間ではないような、こうした声(優美で官能的でもあって…)が出るのかと不思議…。

 《梅枝》では、亡くなった夫への愛着心が強すぎて成仏できずに苦しんでいる妻が、執着を断つために懺悔の舞を披露する。夫の楽人が纏っていた甲と衣を身に着けて舞う姿は、装束の金色が映えて雅やかだが、夫への思慕を断ちがたいさまが、夫も奏でたであろう「青海波」や「越天楽」「想夫恋」などの雅楽の名にかけて謡われ、膝をついて涙にくれる場面は切ない。執念の生々しさを感じるものだった。

 詞章の「梅が枝にこそ 鶯は巣をくへ 風吹かばいかにせん 花に宿る鶯」は、越天楽今様の歌詞としてうたわれていたもののよう。今日訪れた隅田川の梅にも綺麗な黄緑色のメジロが数羽、蜜を吸いにきていて、ああこれが鶯であったなら、というのはメジロに失礼だな、と。

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 カ・レッツォーニコは、ジャンドメニコ・ティエポロとピエトロ・ロンギの美術館といってもよいほど、作品が充実。特にピエトロ・ロンギのこじんまりとした各画面には、18世紀ヴェネツィアの風俗が愛らしく、ユーモアをこめて描かれており、微笑ましい気分になる。
 その人物の描き方はどことなくカルパッチョを連想させ、またカルパッチョと同様に、まるでおとぎ話のような、非現実的な印象があって、それがまたヴェネツィアらしい。
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 絵の中でヴェネツィアらしさを強調するもの、それはなんといっても「仮面(バウタ)」だ。それぞれが仮面を被った演者で、秘密めいた何かを隠しているよう。ゴルドーニの世界の絵画版というのにも、納得。
 この都市は、やはりどこまでいっても劇場の延長線上にある。

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能《猩々》(上)と《羽衣》(下)をモチーフとした掛袱紗。
松に掛けられた羽衣(迦陵頻伽風)は鳳凰の翼のよう。

 以前、日本刺繍に取り組んでいた際、クラスメイトが将軍家の掛袱紗(だったと思う)を図案に起こし、再現していたことがあった。掛袱紗の写真集を見せてもらったが、その細やかさと華麗さといったら、この上ない見事さで溜息が出たものだ。
 今回の展示を知り、母も日本刺繍をしていたので、興味津々。親子連れだって東京国立博物館へ。
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 能や故事にまつわる吉祥文様の他、まさに「おしどり夫婦」の鴛鴦(これがまた綺麗な鳥...)、二股大根とネズミと俵という面白い組み合わせに(全て吉祥文様)、武家では軍配のモチーフが多いのにも、なるほどと。
 定番の文様、「宝づくし」や「貝合わせ(貝桶)」なども豊富なのが嬉しい。宝づくしの中では「隠れ蓑」がなんだか好きで…(これは「蓑亀」を連想させるからだろうなと。文様では亀の尾っぽの毛ならぬ藻がフワフワして可愛くって...)。
 どれを見ても、お互いに「凄いね~」としか言い合えない。あまりに高度な技ゆえ、現代でも再現するのは困難だろうと思う。ともかく、日本刺繍は同じ個所に何度も何度も重ねて打っていくのだ。それによって立体感が生まれる。しかも糸を撚るところから始めるので、気が遠くなる...。私にとって憧れの文様は鳳凰、若冲みたいに艶やかなハート柄の鳳凰も楽しいかな、と想像してみてはうっとり。
 お正月にふさわしい華やかな展示で、楽しませてもらった。


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 一昨年、東京オペラシティでの日本初演(演奏会形式)で聴いた現代オペラを、METライブビューイングで。
 よい作品を、再びこうした最高のプロダクションで観ることができるとは嬉しい。METの上演にあたって、オーケストラの規模が以前よりも大きくなったように思える。音楽だけでも、万華鏡のように移り変わるスケールの大きい波動を感じさせるが、それに加えて、LEDライトで表現された幻想的な海の演出がピタリとはまり、体ごと別次元へ吸い込まれるような感覚を覚える。実際に観たらどんなに凄いだろうかと…。METの観客も非常に盛り上がっていて、ここまでの大成功とは、驚いてしまった。

 今回の鑑賞にあたり、日本初演でのプログラムを読み返してみて(解説が素晴らしいものなので)、改めて納得する部分が多く、感慨深い体験となった。「自分を満たす完全なもの(それは美でもあり、純粋なものでもあり、愛でもあり...)」を求めながら得ることが永遠に不可能という、人間としての悲劇を救ってくれるのは、やはり神しかいないのだろうか。それを求める以上、救いは神にしかない。
 こうしたテーマを、大海を想い起させる壮大なサウンドで表現した、指揮のスザンナ・マルッキが驚くほどのダイナミックさで、素晴らしかった。女性作曲家に女性指揮者だったので、あとは演出家も女性であればパーフェクト、というのは余計な話。
 
 サーリアホの他のオペラ《アドリアーナ・マーテル》、《エミリー》も女性が主人公で観てみたいもの。
 2015年初演の《Only the sound remains 》は能がモチーフ。サーリアホには他にも日本をテーマとした曲(庭園?だったような)があった記憶が。カウンターテナーが歌うというのも、今ではかえって現代的。能というのも音楽劇なので、作曲家としては触発される部分が多いだろうなと。

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 今日公開のMETライブビューイング《遙かなる愛》を友人達と鑑賞。あまり馴染みのない現代オペラ(しかも長丁場)だが、皆楽しんでくれたようでホッと一安心。来場者も思ったより多くて、年配の方の割合が高いのはいつものことだが、お互いにオペラファンという雰囲気が感じられるのが嬉しい。
 鑑賞後は女子会ならではのヴィーガン料理店へ。こうしたレストランは男性には辛いだろうと思って、女子だけのメンバーの時に、あえて選んでみた。
 グリーンカレーのランチ、辛さはほとんどなく、むしろやさしい甘さで美味しい。玄米100%となると、自宅ではちょっと難しいかな。野菜盛りだくさんで、ボリューム的には大満足。
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 デザートも「ヴィーガン」と言われなければ分からないほど。ガトーショコラはグルテンフリーだけれど、濃厚な風味で豆乳クリームとの相性も良く、美味しい。ラムレーズン風味のアイスクリームも、ヴィーガンとは思えないお味。
 レストランは満席で、若い人がほとんど。雰囲気が落ち着けるので、おしゃべりも盛り上がり、あっという間にお開き。たまにはこんなのも、いいよね。

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 カ・レッツォーニコの見学コースは2階の舞踏用ホールから。クロザートによる、だまし絵的(トロンプ・ルイユ)な天井画がいかにもバロック的。天井だけでなく、壁面もそのような設えで、なんともいえない華麗な空間となっている。
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 中国の陶磁器の見せ方が、こちらでは考えつかないないようなもので、ヨーロッパ的なものとの強引な融合に「…凄い」と。
 一昨年ドレスデンでも、日本&中国の陶磁器コレクションと、マイセン(初期の初期のもの)をたくさん見たけれども、それは美への執念が感じられるものだった。お互い、持っていないものに憧れるのは同じだなぁ。

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 ヴェネツィア・バロックの建築家、ロンゲーナによるカ・レッツォーニコへ。
 邸館を正面から眺められなかったのが残念だけれども、内部は1700年代ヴェネツィア博物館となっており、当時の雰囲気をうかがい知ることができる。
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 邸内ホールに一歩足を踏み入れたとたん、豪華な室内装飾に驚愕。フェニーチェ劇場や規模の大きいドゥカーレ宮殿とは違って、住まいの場としての華やかさに満ちている。
 色も鮮やかなヴェネツィアン・グラスのシャンデリアに目が釘付け。ここはオテル・ダニエリかと思ってしまう。ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』のミリーが借りたパラッツォもこんな感じだったのだろうかと…。
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 ―「パラッツォー・レポレルリは、飾り付けをした極彩色の厳めしい偶像のように、いまだにその大きな膝の上に過去の歴史を抱いていた。この宮殿で絵画や骨とう品に取りかこまれ、崇拝され奉仕されているのは、豪華なヴェニスの消し去ることのできない過去だった」— (『鳩の翼』青木次夫 訳より)
 そう、ヴェネツィアは過去の豪華さを、まだ切なく留めようとしているような雰囲気があり、過去に沈む都市というイメージが、私にとっては強い魅力の一つだ。その運河や音楽、絵画全般にノスタルジーを感じてしまう。

 ここはカナル・グランデに面しており、ヴァポレットも泊まるのだが、信じられないほど見学者が少なくて、ゆったり過ごせる。絵画を含めた展示品も見ごたえがあって、思った以上に楽しめる博物館。
 

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 浅草七福神めぐりで立ち寄った隅田川。雨だったので、ゆりかもめも何とはなしに憂鬱な佇まい。
 こんなグレーカラーの日に隅田川でゆりかもめ=都鳥を見ると、「われもまた いざ言問はん都鳥 わが思ひ子は東路に ありやなしやと」と《隅田川》の謡が思い返されてくる。
 悲哀極まる話だが、伊勢物語(東下り)を引き合いに出しての渡し守との掛け合いのくだりは、何とも風流。川岸にはカフェもあって、こんな日こそ、カフェでコーヒーでも飲みながら、ゆったりと景色に浸れれば幸せ。
 それにしても、ゆりかもめはとっても可愛い。都鳥だけれど、「鄙(田舎)の鳥」と言われてしまうのは、まぁ仕方ないか。
 《隅田川》は狂女物だが、オペラでも狂乱の場が見せ所になっている作品がいくつもある。イタリア・ルネサンス文学の《狂えるオルランド》もそうだけれども、この「狂う」という行為に託すものが、東西問わず共通性があるのだろう。ブリテンの《カーリュー・リバー》もあったなぁ、聴いたことがないけれど、今度聴いてみようかな。

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