カテゴリ:コンサート( 52 )

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 昨年スカラ座のヘンデルで初めてファジョーリを聴くことができたが、なんと日本で聴く機会に恵まれることになろうとは思わなかった。この公演を実現していただけたことに、まずは主催事務所を始めとする関係者の皆さまに感謝したい。結果、大成功の公演となりバロック・オペラ(ヘンデルのオペラ)とカウンターテナーの魅力をより多くの方に実感していただけたのではないかと思う。これで弾みがつき、日本でもさらにバロック・オペラへの間口が広がり、公演そしてファンが増えていくことになればと、愛好者の一人として心から願うものである。

 オケはヴェニスバロック、来日の度に聴いているので馴染み深いが、今回はファジョーリがいる。ということで、私も気合を入れて会場に向かったが、開演前から会場全体が高揚感で満ちていることに驚く。そう、今聴くべきはカウンターテナーなのだ、待ってました!という盛り上がりである。

 そしてファジョーリの歌いっぷりだが、前半は思ったより精彩を欠いている印象で、これはもしかしたら昨年のスカラ座と一緒(不調に見えた)かも…と不安を感じていたが、《リナルド》のVenti,turbine,prestateで声が発せられたとたん、これまでとは別人のようなトーンの艶やかさに「わっ!きた!」と胸が高鳴り、とたんに惹き込まれてしまった。これは十八番なのだろう、彼の超絶技巧が冴えわたり圧倒的。このアリアが終わったとたん、「Bravo!」の嵐(私も思わず声を掛けてしまった、お見事!)である。
 休憩を挟んでからは、さらに調子をどんどん挙げていき、それと比例して観客の声援も熱を帯びていく。日本のコンサートではないような熱い雰囲気に。

 ファジョーリの声自体はジャルスキーやメータに比べると、決して「美声」(私の好みは芯の堅いクリアな声)ではないが、テクニックがともかく凄く、ファルセットと地声をあんなふうに使い分けることも滅多にできまい。そのテクニックを駆使して、これ以上はないという豊かな表現をもって、バロック音楽に、ヘンデルのオペラに熱い血の通う生命を吹き込んでくれているのだ。ヘンデルのファンとしても、嬉しい限りだった。

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 クラシック&ジャズのピアニスト2人によるバッハの「ジャズ」演奏会へ。
 即興の要素が強くテンポが一定のバロック音楽は、バッハのみならずジャズに近いと思う。特にバッハのフーガなんて、もうジャズそのものだな、と。一つのテーマが様々な形を取って変容していくさまに、この先どうなるのかとワクワクする。「おっ、こうくるのか」と予想しない方向に展開していくと、そこで感心したり、驚いたり…。でも型は外さず、最後には円を描くようにキチンと収まってしまうのはさすがだ。
 ジャズだと奏者同士で丁々発止の火花が飛ぶ応酬が聴きどころだったりするけれど、この演奏会のコンセプトは「バッハの音楽との対話」ということから、お互いに寄り添い、じっくりと議論を交わすようなやり取りが印象的だった。
 とはいっても、ジャズの遊び心に満ちた演奏で、観客は皆楽しくリラックスして聴けたのではないだろうか。バッハというと居住まいを正して堅苦しく傾聴しなければならないイメージがあるが、今回はジャズとの融合で、メロディーの美しさを引き立たせるアレンジにより、バッハの魅力を存分に伝えてくれた。ジャズ化しても違和感が無いのがバッハで、私にとっても新鮮な体験だった。
 
 有名どころではゴルトベルクやG線上のアリア、アンナ・マグダレーナのメヌエット、そして「主よ人の望みの喜びよ」。
 平均律1巻からは3曲のプレリュードが登場したが、プログラムにないフーガまで続けて行ってしまうことがあり、アレンジがまあエキサイティング!ここではバッハ弾きと呼ばれるバーラミの腕が冴えわたり、「やっばりフーガはカッコいい!」となる。
 プレリュードは通奏低音化してドビュッシー風、ロマン派風にと変容、フルート・ソナタ「シチリアーノ」と無伴奏ヴァイオリン・パルティータ「サラバンド」では、楽器の特性でもある息の長い旋律がロマンティックなアレンジによって歌われ、うっとり…。
 どのアレンジも、今生まれたばかりのような躍動感に満ち、こちらの気持ちもすっかりリフレッシュ。
 こんなバッハなら大歓迎だ。

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 私の好きな(…もう熱愛に近い)ミュージカル《エリザベート》鑑賞へ。宝塚歌劇版は10回目の再演となり、私は4年振りの鑑賞だが、今回初めて本場兵庫の宝塚大劇場まで遠征。1992年ウィーン生まれのこのミュージカルは、これまで世界10か国以上で公演されており、ドイツ語ミュージカルの中では最も成功した作品となっている。宝塚歌劇団にとっても「昭和の宝は《ベルサイユのばら》、平成の宝は《エリザベート》」との談。このヒットのおかげで、皇妃エリザベート自身もすっかりメジャーな存在になった。
 この《エリザベート》との出会いは20年ほど前になるのではないだろうか、都内のCDショップでたまたまウィーンの初演キャストによる公演のCDが目に留まり聴いてみたところ、ストーリーはもちろん、音楽も素晴らしいのに感嘆(特にエリザベートが歌う《Ich gehoer nur mir》に共感)。実際の舞台を観たこともないのに、すっかり夢中になってしまった。ちょうど、宝塚が初演してヒットしていた時だったのではないかと思う。ウィーン初演版では、オペラでも著名なハリー・クプファーが演出を手掛けていると聞き、わあ、いいなぁと…。
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 ありがたいことに、日本では《エリザベート》が宝塚版、東宝版、そしてウィーンの引越し公演までと上演が盛ん。私も4,5回は観ているのではないかと思う。何度観ても飽きないし、何度でも観たいと思う魅力がある。
 それぞれの版に異なった魅力があるが、私にとってはウィーン版が一番。ドイツ語の響きが美しく、歌詞も詩的。日本語と比べて情報量が多いので、ストーリーに深みが出て、何よりエリザベートの人物像が生々しく立ち上がってくる感覚がある。しいことに、この日は作曲のシルヴェスター・リーヴァイ氏がおみえになって大喝采。私も直接「《エリザベート》を創っていただき、ありがとうございます、これまで何度聴いたかわかりません」とお礼を言いたかったぐらい。
 《エリザベート》の魅力を語ればきりがないのだが、ハプスブルク帝国の滅亡と「死(Der Tod)」の擬人化であるエリザベートの誘惑者が重なっているところが秀逸。
 ウィーンと「死」は、いつも背中合わせである。シューベルトの《死と乙女》や、コルンゴルト《死の都》でも描かれるように…。

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レオン・バクストによる《牧神の午後》の「ニンフ」デザイン画
(バレエ・リュス展カタログより)

 今日は〝バレエ・リュス”プログラムともいえるドビュッシー、ラヴェル、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽で構成されたコンサートへ。演奏はパリ出身のロト指揮によるフランスのオーケストラ、レ・シエクル。
 初演当時(1913年)の響きは、なんと目もあやなことよ!本当に素晴らしかった。これだけの大編成で、楽器も当時に近いものを揃えて…というだけでも日本ではなかなか聴く機会がない。しかし、楽器を揃えただけでは意味がない、その楽器を生かし、説得力のある魅力的な演奏になっているかどうかが重要だが、まあ鮮やかな指揮による見事な演奏で腰が抜けた(特に管・打楽器群)!
 世の常として、クラシック音楽の演奏にも世界的なモード=「流行」というものが存在しているが、これが最先端の一つであることに間違いはないだろうと思う。
 未だ興奮冷めやらずの状態で、また改めて書き加えたいなと…。

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 中世の伝統歌、というタイトルに何とも言えぬノスタルジックな、いにしえの薫りを感じてチケットを購入。
 初めて接するアンサンブルなので、期待と不安が半分半分。が、どんな世界を見せてくれるのだろうかというワクワク感の方が勝る。いよいよ演奏が始まると、一曲目《美しきパリの女たち》(フランソワ・ヴィヨン作曲)から「わぁ、これはいい!」と気分が高揚。これは大当たり!
 大好きなデュファイ(初期ルネサンス)や、モンセラートの朱い本があったのは嬉しかったが、ほとんど初めて聴く曲。
 それは、いつから歌い継がれてきたのだろうか、十字軍時代のセファルディムの伝統歌、12世紀の紡ぎ歌、13世紀の写本、また中世のマリア賛歌からは、「マリア崇拝」の伝統を感じる。演奏の最後、観客も一緒になって「アベ・マリア」と繰り返し声を合わせて歌ったが、その当時の聖母マリアに対する人々の想いが、ひしひしと迫ってくるようだった。

 5名のアンサンブルだが、古楽器(10種類ぐらいはあったのではないだろうか)を駆使して、民謡を生き生きと、そして吟遊詩人の歌をしっとりと、ある時にはコミカルな歌と変化を付けて全く飽きさせない。
 そして、バロック以前から存在する古楽器の数々に目から鱗状態である。楽器のルーツを辿ると、西洋も東洋も元は同じという楽器は多いが、やはり古いものになればなるほど、東西の境目が曖昧になっていく感じがするのである。
 歌はどうだろうか、最後には何か遙か遠い遠い過去に還っていくような、懐かしい思いに囚われて目が潤んでしまった。頭で聴くというよりも身体で音楽を受け止めたような気がする。

 CDを購入しようとしたところ「3種類あったが、初日で全て完売」とのこと。残念。また機会があれば聴きたいもの。

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 楽しみにしていたピエール・アンタイによるスカルラッティの演奏会へ。
 以前にラジオ放送でアンタイのスカルラッティを聴いた際、度肝を抜かれCDも聴いていたが、今回実演に接することができて嬉しい。ラジオ放送で聴いた際は、歴史的に名高いヘンデルとスカルラッティの鍵盤演奏対決という企画だったが、チェンバロ曲を聴き比べると圧倒的にスカルラッティの勝利である。目を瞠るような驚きに満ちた曲の展開は、眩いばかりの音の渦となり、まさにスカルラッティは鍵盤の魔術師だ。
 ドメニコ・スカルラッティは、バッハやヘンデルと同い年だが、新しい様式を先取りしている感が強い。古典派への架け橋となっているC.P.Eバッハに近いと言われるのもうなづける。

 アンタイによるスカルラッティはそれは見事で、まるで魔術師のごとく、次から次へと鮮やかな手品が繰り出されるよう。驚きに満ちて、胸がずっとドキドキしていた。そんなソナタの中で、一曲だけフーガハ短調K.58(バッハ《音楽の捧げもの》に似ているような)があったのだが、これが明らかに「異質」な印象で「時代遅れ」に聴こえてしまう…。
 そんなスカルラッティを聴いて思い浮かぶのは、やはりスペインのまばゆい太陽、その光の下で踊られているダンスの風景や、掻き鳴らすギターの音色などの情景。そして光が鮮やかなだけに、陰はより濃く暗いものとなり、その暗さもじっくりと味合わせてくれた。16世紀から17世紀前半には「スペインの黒」が流行したが、私にとってスペインの色は「黒」。スカルラッティのソナタには、確かにその深い「黒」がある。
 
 ピアノで弾くこともポピュラーなスカルラッティだが、私のピアノの師匠は「どうも弾き方がよく分からない」と言う。チェンバロでの演奏を聞くと、こちらの方がよりストレートに(面白く)曲を味わえるように思える。ギターを模した音色など、ピアノで表現するのは難しく、ピアノで弾くならば、曲を選ぶ必要があるだろう。

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 あの東日本大震災の年に、大野和士さんの指揮で都響の第九を聴き始めてから6年目となる「都響第九」。
 家族で聴く、毎年恒例の1年を締め括る行事となっている。2011年には、震災で避難されていた方々をご招待しての演奏会で、あれほど会場が丸ごと連帯感で繋がった、辛さを一緒に乗り越えていこうと強く心に念じた演奏会はなかったように思う。震災の記憶を風化させることなく、自分に今、できることはなにか、と考えることを忘れずにいたい。

 この曲は、その年ごとに受け取る印象が異なってくるのだが、今年の第九はとても落ち着いて、穏やかに聴くことができた。今年は自分にとって、そうした平穏な年であったのだろう。本当にありがたいことで、改めて感謝の気持ちが沸き上がってきた。クリスマスに、私にとって、これ以上の贈り物があるだろうか!

 演奏は、力強い真っ向勝負のベートーヴェン。低音が効いて重量感があり、内声部もよく聴こえてくること!(私の好みだ)様式の構造がくっきり見えてくるような緻密さ(指揮に音がキッチリと付いてくる、見事)=ベートーヴェンらしさが伝わってくるのが嬉しい、「オーケストラ」を聴いたという醍醐味のある演奏だった。

 今回、イタリアでご活躍中の新進メゾソプラノ脇園さんがソリストとは知らず、プログラムを見て驚く。その凛とした華やかさは、すでにプリマドンナの風格。ただ、第九ではなかなか声自体をじっくり味わうのは難しい、日本でのオペラ・デビューは観れなかったので、機会があればオペラでまたお聴きしたいもの。


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 ラモー&ピエール・アンタイのファンとしては行かねばならぬ演奏会。
 ファンとしては感涙ものだが、しかし、自国フランスでも一般的に知られているとは思えない作曲家のものを、よくまあ日本へ持ってきたものだと…(今回は演奏ツアーで、改めて日本のために用意されたプログラムではないとのことで納得)。予感は的中、思ったより会場の入りが少なくて残念だったが、始まってみるとそれはもう楽しさ満載のステージで、「ああ、楽しかった!」と観客同士で思わず言い交さずにはいられないほどのノリの良さを満喫。

 レザール・フロリサンのクリスティが「ストラヴィンスキーとラモーはダンス・ミュージックとして最高レベル」と述べていたような記憶があるが、ラモーの音楽は本当にダンサブルで、その肝はリズム感にあるいうことに尽きるのではないか。フランス・バロックオペラの流れを汲むラモーのオペラでは、バレエが不可欠であることから、当然そうなざらるを得ないのだが、ダンスと音楽は原始の時代から固く結びついているもので、リズムというものは理屈を越えて、人間の生理的(生物的)なものに強く訴えかけてくる力を持っている。これはラモーだけではなく、舞曲から発展している曲が多いバロック音楽全般にいえることだとも思う。私はバッハにもそれを強く感じることが多い(バッハを好きな理由の一つ)。

 今回はチェンバロ2台によるラモーのオペラハイライト集という感で、言わば美味しいとこ取りのプログラム。チェンバロ2台の演奏とは思えないほどの広がりを見せ、まるで目の前で、ラモーによる、めくるめくばかりの華麗なフランス・バロックオペラが展開される感覚を味合わせてくれた。やはりオペラはエンターテイメントである。今回の演奏がお気に召した方は是非ラモーのオぺラへも足を運んでいただきたいなと。チェンバロ2台でもこの楽しさなのだから、オペラとなればさらに楽しさ倍増なのは間違いない。
 オペラもカエル(=ニンフ)が主人公の喜劇風《プラテ》から、ラシーヌの格調高い悲劇を原作としている《イポリートとアリシ》もと作風が幅広いのも魅力。私のお気に入りは《ゾロアストル》、正義と悪の対立という。その情念の凄まじさには圧倒されてしまうほどで、ラモーのオペラの中でも傑作の一つだと思っている。フランス・バロックは優雅なだけではない、優雅さの下から、人間の業を余すところなく描き出そうとする奥深さをも見て取れるはずである。

 今回のプログラムは3部構成で、1部はアンタイが通奏低音的なポジション、そして2部はセンペとチェンジ、3部は交互にといった印象だったが、チェンバロはそれぞれがフレンチとジャーマンで音色が異なることから、曲によって細やかに立ち位置を変えていたのだろうなと。何といっても、オペラの序曲、前奏曲、そしてオペラ締め括りのフィナーレであるシャコンヌの盛り上がりに気分が高揚、大好きな《ダルタニュス》のシャコンヌ、《優雅なインドの国々》のシャコンヌ、《ピグマリオン》の序曲…。定番の《未開人》も、さあどうだといわんばかりのオリジナリティあふれる味付けで、さすがだなと唸らされた。最後の《タンブーラン》はラモーのダンサブルさが全面に押し出されていて、ズンチャズンチャと(こんな表現でごめんなさい)身体が自然に動いてしまいそうになる。
 クラヴサン合奏曲集からの《おしゃべり》《挑発的な女》《マレ》からも、人間描写に優れたラモーの手腕が見事に伝わってくるが、クープランから進んで、さらに表現に鋭さと鮮やかさが増しているように思う。

 コンサート終了後、お気に入りのアンタイによるスカルラッティのCD&プログラムにサインをいただいた。スカルラッティも度肝を抜かれる凄い演奏なので、「とってもいいです!」と伝えると嬉しそうにしていらした。また日本にいらっしゃる機会があるかお尋ねしたところ、「5月に」とのこと。ラ・フォル・ジュルネでは、是非スカルラッティを!

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 私がもしヴァイオリンを弾けるのではあれば、真っ先に弾きたいのがシベリウスのヴァイオリン協奏曲だ。その曲からは、北欧フィンランドの豊かな自然から溢れ出る、澄み切った大気が浮かび上がり、素晴らしい彼の国の光景を想い起さずにはいられない。このヴァイオリン協奏曲はそれこそ昔…、10代後半頃に聴いて感動し、それからシベリウスの交響曲や《トゥオネラの白鳥》《悲しきワルツ》《フィンランディア》など著名な曲を選んで聴いていた記憶がある。しかし、実演ではシベリウスの曲を聴いた記憶がない(忘れてしまったのかも)。社会人になりたての20代初めの頃は、それこそオーケストラの定期会員になって曲を選ばず聴きに行ったものだが、それも昔のことである。

 今回の《クレルヴォ交響曲》は、シベリウスの若かりし頃の作品とのことで興味を惹かれ(聴いたことがないものだと食指が動く)、そして都響の演奏ということで楽しみにしていた。
 指揮のリントゥも接するのは初めて。都響はここ数年、年に何回かは聴いているが、前半は荒いというかガサついた響きで、あれ、いつもこんな演奏だったろうか、と自分の気持ちが乗らず(曲に気持ちが揺り動かされると、必ず身体的な反応が出てくる、つまり自分が曲に巻き込まれていく感覚を味わえるのだが、全く反応なし)。曲の構成もシベリウスの個性がはっきりとは見えない感じで、どこかで聴いたことのあるような調べが流れていくなぁという印象。
 
 これが、第三楽章の始めに声楽が入ってきたとたん、打って変わって躍動感みなぎる、生き生きとした調べが会場を満たし、オーケストラも美しい滑らかさと荘厳さで、緊迫感のあるドラマを形作っていく。合唱は、粒の揃ったくっきりとした響き(フィンランド語!)で物語を伝え、素晴らしい歌声。気迫の籠ったエネルギッシュな指揮にオーケストラも渾身の演奏で、後半は全く見事というほかない。
 アンコールの《フィンランディア》もお国ものということで、感動を覚えないわけがない。ただ、これは私の趣味の問題だと思うが、あまり大仰なのは苦手。大仰というのは、オーケストラ自体の規模が演奏主体として大きいので、自ずと会場も大きく、観客も多くなる。
 オペラを除いては、できるだけ小さな会場の親密な空間で、音楽(楽器や奏者、観客との一体感を含めて)を味わうのが好きなので、私にとっては、やはり大きすぎると改めて感じた一時でもあった。

 音楽と最も一体感を感じるのは、やはり自分でピアノを奏でている時なのかもしれない、バッハを弾く時の、あの心震えるような愉悦を超えることがあるのだろうか、と。

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 C.P.Eバッハはここ最近の大のお気に入り。そして、今回は滅多に聴くことのできない彼のオラトリオ《荒野のイスラエル人》が演奏されるとのことで非常に楽しみにしていた。演奏はオッターヴィオ・ダントーネ指揮、サント・スピリト・アカデミア・オーケストラ&合唱団(トリノにて1985年に設立。スピリト・サント=聖霊教会には行かなかったが、ご当地もので嬉しい)、そしてソリスト陣。
 《荒野のイスラエル人》はテレマンの後任を目指して渡ったハンブルクで初演され、当時でも大変評価の高かった作品。C.P.Eバッハの作品は、アヴァンギャルドで大胆な試みが刺激的だが、ここではオラトリオということで、ドラマチックでありながらも前衛さは控え、抑制を効かせて古典派的、そしてベルリン時代を彷彿とさせるエレガントな美しさが際立っている。さすがC.P.Eバッハ、期待を裏切らぬ見事な出来栄えの作品である。オラトリオだが、オペラティック、というのは、アリア(特にソプラノ2声)がバロック的で繰り返しの部分はお約束の装飾&即興性という華やかさであり、宗教的というにはあまりにも華麗。ソリストには高度な技巧が求められ、音楽自体にエンターテインメント性が高い。
 ソプラノのデュエット・アリアの美しさといったら、内容はイスラエルの民に救いを差し伸べぬ神への嘆きを謳いあげているのだが、モーツァルトに匹敵する天国的な調べで、地上を離れて天に誘われるがごときである。
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 合唱はイスラエルの民の嘆き、そして救われた歓び、神への感謝を情感豊かに表現、きっちりドラマを牽引し、引き締める。バスに割り当てられているのはモーゼ。登場シーンはシンフォニー付きで、いよいよモーゼ登場と金管を鳴らすこの辺りから、モーゼに神の無情を訴えるイスラエルの民(合唱)の怒りの場面の構成もメリハリがあり、ドラマとしてもよく出来ている。ダントーネもツボを押さえた采配ぶりで納得の表現。テノールはアロン。逆境の中、神を信じろと民を諫めるアリアには、心打たれる説得力がある。
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 会場はほぼ満員。当然歌詞はドイツ語なのだが、プログラムにはしっかりと対訳&解説付きで、本当に素晴らしい。観客で対訳を観ている方はそう多くなかったが(この辺りは日本と同じ)、集中して聴き入っている雰囲気。終了後はスタンディングオベーション。ソリストの歌唱も良くて、大満足。聴きに来て良かった、この曲はまず日本では聴けまい(というかやらないだろう)。
 驚いてしまうのは、このコンサートが無料であるということだ。これほど質の高い、オーケストラ&合唱団、ソリスト、指揮を揃え、しっかりとしたプログラムも配布している。いったいお金はどこから出ているのだろうか、と素朴な疑問が湧き出てくると同時に、日本との根本的な「文化」の享受ということの違いに想いを馳せずにはいられなかった。

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