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カテゴリ:opera( 65 )

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スカラ座博物館の企画展「舞台でのマリア・カラス」にて
ゼフィレッリが演出したスカラ座でのロッシーニ《イタリアのトルコ人》

 きっと今頃、天上でマリア・カラスと再会して、オペラの世界も随分と様変わりしていることを報告しているのだろうな。映画はもちろんだが、やはりオペラの演出家として馴染み深く、これまで何度も楽しませていただいた。
 《ラ・トラヴィアータ》、《ラ・ボエーム》、《トゥーランドット》、《アイーダ》…。「醒めながら観る美しい夢」としてのオペラをまさに具現化してくれていた。そうしたオペラに対する夢や憧れがある限り、この方の演出はこれからも受け継がれていくだろう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの血縁という可能性があるそうだが、レオナルドも舞台演出家として自分を売り込み、実際に舞台を手掛けている。DNAの繋がりをこれほど感じる例があるだろうか…!ご冥福をお祈りいたします。
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昨年、古代ローマからの景勝地カプリにて
ティベリウス帝が晩年を過ごした場所、フローベールの原作にも登場

 なかなか聴く機会のないオペラ、マスネ《エロディアード》の演奏会へ。この機会を逃すと一生聴けないかもしれないという誘惑…、オペラ好きとしては上演自体がまずありがたい。CDでは聴いていたものの(ウィーン国立歌劇場のライブ盤)実際の演奏は初めて。

 原作はフローベール『三つの物語』の最後の作品「エロディアス」から。オペラの台本作者はこの原作から枠組みだけ取り出して、オペラ向けに内容を再構築しているので、原作とはほとんど別物といってもよいと思う。というか、原作をそのままオペラ化するほうが無理がある。エロディアス」はあくまでも『三つの物語』のなかの一つで、他の二つの作品があってこそ意味を成すからだ。それは他の二つの物語にも言えることで、三つの物語が重なることで完璧なフローベールの作品世界となる。まさに三位一体、「エロディアス」は父(神)、「聖ジュリアン伝」は子(イエス)、「純な心(まごころ、素朴なひと)」は聖霊を表現しているように思える。
 特に「聖ジュリアン伝」は号泣するほど心打たれた。フローベールが描く、イエスに抱かれて昇天するジュリアンの姿に感動しない人なんているのだろうか。この「聖ジュリアン伝」と「純な心」ではイエスと聖霊の出現による救済で締めくくられるが、「エロディアス」にはそうした救済がない。人間イエスが生きていて、洗礼者ヨハネも牢に捕らえられているからだ。物語としては新約聖書の記述に添い、エロディアスの娘(サロメ)によってヨカナーン(ヨハネ)が斬首されたところで結びとなる。

 マスネの《エロディアード》では、グランド・オペラらしく、洗礼者ジャン(ヨハネ)、サロメ、エロデ(王)の三者による恋愛模様を中心とした流れ、エロディアード(王妃)も物語の鍵を握る存在感たっぷりの迫力である。
 原作でも紀元前のローマ支配下のユダヤの地がリアリティ豊かに描き出されているが、マスネもスケールの大きい音楽作りで、十分にその鮮やかなオリエントの雰囲気を作り出すことに成功していると思う。優美なだけではないのが、さすがマドモアゼル・ワーグナー。
 公演後に再びCDを聴いてみると、また新たな魅力が浮かび上がってくるよう(素敵だ)。こうした作品こそ当時を再現したオーソドックスな演出&衣装で、リアリティ豊かに観たいものだが、それができるのは今やMETぐらいか…。
 この大作を演奏するのは、フランス語の歌唱を含め大変であったろうと思うが、作品全体と魅力を改めて知ることができたのが何よりも嬉しかった。今後もマスネの様々な作品を聴くことができればと、ファンとしては願っている。

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昨年7月に訪れたフィレンツェ
夏の空に大聖堂と鐘楼が眩しい
 
 フィレンツェを舞台としたオペラ2作品の公演へ。
 ツェムリンスキー作曲《フィレンツェの悲劇》&プッチーニ作曲《ジャンニ・スキッキ》のダブルビル。悲劇と喜劇という組み合わせの妙を十分に味わい、久々にオペラの公演を楽しんだ。
 何より、演出が奇をてらわないオーソドックスさでいい。粟國さんの演出は、昨年のフェッラーリ作曲《イル・カンピエッロ》(ゴルドーニ原作)でも、在りし日のヴェネツィアに居るかのごとき鮮やかさで印象に残っているが、今回も素敵だった。
 今回の作品のように、一般的にあまり馴染みのない作品については、やはり作品世界への理解を助ける「分かりやすさ」が求められると思うし、それが観客への親切な対応ではなかろうか。
 そこを押さえたうえで《ジャンニ・スキッキ》は喜劇にふさわしい遊び心の効いた演出で、プッチーニ節の流麗なメロディーと進化した和声の相乗効果といったら!幸福感が溢れ出る舞台とはこのこと。
 演出では台詞に沿ってフィレンツェの名所&美術家等が登場、そしてもちろんダンテと『神曲』そのものも!この『神曲』の使い方には舌を巻いた。まさに地獄から登場のジャンニ・スキッキに、お見事!
 「フィレンツェよ、さらば」とジャンニ・スキッキがうたう箇所は、否が応でもフィレンツェから追放されたダンテの悲哀が感じられて、切なくなる。
 そして、「フィレンツェは楽園のよう…」と、うたわれるフィレンツェ=ダンテ賛歌に、こちらも暖かな愛情に包まれていく感じ。
 だって《ジャンニ・スキッキ》はプッチーニの天国篇なのだから、満ち足りた気持ちになるのも当然。ただただ、素晴らしい。
 

 《フィレンツェの悲劇》は初めて聴いたが、すぐに「あ、これ好き」と。
 特にオーケストラが良くて、以前にやはり沼尻さんの指揮で聴いたコルンゴルト《死の都》を想い出した、というのは音楽がシュトラウスっぽいだけではなく、コルンゴルトにも似ている…と感じたからだが、それも当然、プログラムを読んだらツェムリンスキーはコルンゴルトに作曲を教えた先生だった…。好きと思うのも当然。
 この戯曲には、こうした後期ロマン派の音楽がピッタリ嵌まる。私にとっては理想的。

 原作はオスカー・ワイルド。ワイルドが釈放後にナポリで手を入れ完成させようとしていた戯曲。ナポリの太陽の元でないと書けないと…。
 古典の専門家でもあったワイルドの台詞は華麗でデカダンス。イタリアの優雅な古都の名も散りばめられていて、なかにはプッチーニの故郷ルッカの名も。
 ワイルドの人生自体が華麗さと醜聞に満ちたドラマチックなものだが、《フィレンツェの悲劇》には生涯の恋人ダグラスとその父との関係が投影されているような気がしてしまう。彼の内面と美学を吐露したような、倒錯した愛の関係性(ワイルドとダグラスとの関係も非常に複雑だった)を感じさせるこの作品の背景についても、プログラム等で掘り下げた解説があると嬉しかった。

 ワイルドが投獄されていた時に読んでいたのがダンテ『神曲』。特に「地獄篇」に惹かれていたそう。これは《ジャンニ・スキッキ》=ダンテ『神曲』繋がりで、読み替え演出にも使える(もう使われていたりして…)ネタでもあるなぁと。

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 終演後、鑑賞を共にした友人が「あのように人を愛することができればいいわね…」と溜息交じりに語っていたが、そう、このオペラは自らの全てを掛け、その恋が自らの破滅へと導くものであろうとも、それを承知で恋を貫き通す騎士デ・グリュ―の物語である。デ・グリュ―のひたむきな想いに答えるマノンの想いが重なるとき、プッチーニの才能の炎も燃え立つさまが手に取るように伝わり、胸をかき乱すような切ない音楽が、こちらの涙を誘ってやまない。
 その音楽は、プッチ―二が《マノン・レスコー》を作る際に宣言したという有名な台詞―「マスネが白粉やミヌエットでフランス人風にやるなら、僕はイタリア人らしく激しい情熱で作り上げる」—その通りに「激しい情熱」がそのままメロディーとなって流れ込んでいくような作品である。

 その情熱は作品にもちろん反映されているのだが、以前聴いたMETのルイージ指揮のものは、理性的で整然とした印象(もちろん盛り上がるツボは押さえているのだが)で、こうしたアプローチもあるだろうが、今回のオーケストラはざらつきはあるものの、「情熱」を十分に伝えてくれる演奏だった。何よりデ・グリューを歌ったクンデが素晴らしく、やはり3幕から涙が溢れてきて、4幕では泣きっぱなしだった。叶えられない恋を、自分の身に置き換えてしまうからなのだろう。恋は叶えられなかったからこそ、美しいといえるのかもしれないが。

 キアラ・ムーティによる演出は、1幕から砂漠を登場させ、写実的というよりは心理描写の強いもの。二幕でマノン以外の人の動きが止まってしまう場面が秀逸。終幕、砂漠で死に向かうマノンが過去を振り返っているような作りだ。色彩も淡く、砂漠の蜃気楼めいた儚さがあった。
 そういえば、先日の講演によればワーグナーからの感化が最も現れているのが、この作品とのこと。プッチーニはこの後ワーグナーの手法を乗り越え、さらに彼独自の世界へと進むことになる。


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 「プッチーニの《トゥーランドット》はイタリア・オペラの到達点であり、そこから先へは誰も進むことができなかった」という納得の着地点で講演を締め括ったヴェネツィ氏は1990年生まれの新鋭指揮者。
 プッチーニの作品はオペラ劇場でのレパートリーには欠かせないものであり、また上演数が多いにも関わらず、愛好家や一般向けの講演会及びレクチャー等で取り上げられる機会が少ないのではないだろうか。ヴェルディやベルカントオペラ、バロックオペラなど、他のイタリア・オペラに比べ、日本においてはアカデミックには語られていないような印象がある。が、今回の講演はさすが指揮者である。プッチーニの作曲技法を中心に据えた内容で(とはいっても一般向けなので、専門用語は控えめ)、まさにプッチーニがイタリア・オペラの到達点であることが理論的に述べられていて、非常に勉強になった。
 
 具体的に「フォーム」「メロディー」「ライトモチーフ」「ハーモニー」と項目に分けて説明がされたが、《トスカ》の自筆スコアには「何事にも負けずに、〝旋律”、旋律のオペラを作ること」というプッチーニのメモが残されているそうである。旋律が常にはっきり表れるというのはイタリア的な特徴で、これはトスカーナ地方(カッチーニの名前が出てきたので「新しい音楽」=モノディ様式、フィレンツェのことだろうか、プッチーニはルッカ出身)で生まれた伝統的な形式に沿っているものとのこと。伝統の枠を壊すことなく、ドイツ、フランスの形式を融合させ、「”ヨーロッパ”のオペラ」と呼べるようなところまで持ってきたのがプッチーニで、結果イタリア・オペラを国際的な場へ引き出したのだった。

 ワーグナーの影響と対比(ライトモチーフの扱い方、半音階の用い方)なども詳しい話があり、話せばきりがないのだが、遺作《トゥーランドット》(私は《マノン・レスコー》と同じくらい好き)は表現主義的、特にアリア《この宮殿の中で》は無調へとーギリギリ調性を保つ限界までいってしまったということで、これではなかなか最後が決まらなかったであろうと、うなづけてしまう。
 いったい、プッチーニはどのようにして《トゥーランドット》を終わらせようとしたのだろうか。プッチーニのスケッチと、アルファーノの付け足し部分はほとんど異なっているそうだが、これは永遠の謎である。

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 《マクベス》は言うまでもなくシェイクスピアによる四大悲劇の一つで、権力を手に入れ保身を図るために次々と殺人を重ねていくマクベスを主役に据えたものである。マクベスは殺人=悪に手を染めていく人物だが、そこには不思議なほど「異常」という印象はない。マクベスは、誰の心にも潜む権力欲や支配欲(登場する魔女がその具現化である)にふと突き動かされた結果、雪だるま式に「悪(殺人)」に巻き込まれて破滅を向かえる。マクベスは自らの「悪」を理解し、その苦しみにもがきつつも、抜け出すことができない。それが人間の弱さだろうか、まるで底なしの泥沼にはまっていくような悪夢を想い起させる。
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 この陰惨な戯曲を、よくヴェルディはオペラ化しようと考えたものだと思う。いつも感じることだが、さすがシェイクピアは扱うテーマが大きくて、単なる悲劇とはいえないほどのスケール感がある。ヴェルディは、このスケールの大きさに惹かれているんだろうなと(…ヴェルディについてそんなに知らない身の、勝手な想像で申し訳ないが)、現在のシェイクスピアの評価は言うまでもないので、ヴェルディの目の付け所は凄いが、原作が見事なことを分かっていればいるほど、オペラ化する苦労は並大抵のものではなかっただろう。結果、ヴェルディの《マクベス》はシェイクスピアに力負けしないほどのパワーを備えた作品なのではと思う。
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 原作でも主人公を喰うほどの存在感を示すレディ・マクベスだが、オペラでも紅一点的な存在であるため、さらにその傾向が顕著。舞台の出来もレディ・マクベスによって大きく左右されるのではないだろうか。今回のヴィットリア・イェオは、この役にふさわしい声の色合いでドラマチックな暗めのトーン、雰囲気も違和感がなく良かった。さすがに後半は疲れが見えたが、見事に歌い切ったという感じ。マクベスのルカ・サルシとの息もぴったりだった。
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 マクベスのルカ・サルシはマクベスの内面の葛藤を表情豊かに表現。最後までスタミナを切らさず、さすがの安定感である。バンクォーのリッカルド・ザネッラート、マクダフのフランチェスコ・メーリ(美声!)もこなれた歌唱なのはいうまでもないが、どの歌手も滑らかで潤いのある歌声で感心。いわゆる「絶叫系」とでもいおうか、声を張り上げるあまり苦しそうに聴こえる歌唱が皆無なので気持ちがいい。それが、「えっ?ヴェルディって、こんなに美しかったっけ?」という感想に繋がった一つだと思う。
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 この公演で、マエストロ・ムーティの表現したいヴェルディが伝わってきたのは確か。フィレンツェでのデビュー50周年(…私の生まれる前だ)記念ということで、プログラムにもインタビューが掲載されているなど、さながらムーティ特集の感。
 ちなみにデビューは1968年6月18日テアトロ・コムナーレでのモーツアルト&ブリテン。ピアノはリヒテル!オペラでは1969年のヴェルディ《群盗》(なかなか上演されないが、そういえばスカラ座の来シーズンにあったなと)。
 これから日本でもさらなるマエストロのご活躍を願っている。

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 「ああ!日本から聴きにきた甲斐があった…良かった!」と胸が一杯になった、ヴェルディ作曲の《マクベス》。
 《マクベス》はフィレンツェが初演(ペルゴラ劇場)で、この地と所縁の深い作品。今回は初演の地で聴けるとあって、期待に胸が高鳴っていたものの、肝心の作品自体については「(一応)観たことあります」程度の認識しかない…。音楽には、さほど惹かれないのだ。しかし彼の地で聴くとあってはそうも言っておられず、改めてCDでいくつか聴いてみるが、思いは変わらず。
 …でも、フィレンツェでこの公演を聴いたあとは、もう《マクベス》が好きになってしまっていた。それほど、この演奏は素晴らしかった。
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 ムーティの指揮による《マクベス》は、重厚にして流麗。一音一音を撫でるように、どの音一つも取りこぼさないでおくものかというスタイルで、結果的にテンポはゆったりめ。昨今の演奏は、どちらかといえば軽めでテンポも飛ばすという流れが多い気がするが、それとは真逆。オールドスタイルとも言えるのかも、いや、これがムーティのヴェルディなのだろう。
 そして何より目から鱗だったのが、ヴェルディの描く旋律って、こんなにも美しかったっけ?と。力強さだけではない、エレガントな甘さが所々に感じられるのだ。これがもしかして「本来」のヴェルディの「歌」なんだろうか、そうだとしたら驚きだ…今までのマッチョなイメージがだいぶ揺らいできた。
 ヴェルディの「歌心」を全身に浴びた心地、それは声の入らぬバレエ音楽の部分だけでも存分に感じることができた。10分ぐらいの長さがあるのだが、オーケストラのなんと雄弁なこと!
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 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団&合唱団は、ムーティと一体化したそれは見事な演奏で「わぁ、上手いなぁ」とひたすら感心。全く破綻のみえない技量の高さだが、それだけではない、これが「お国もの」の感覚なのか、イタリアの「音」なのだろうか、弦も管楽器も何ともしなやかで美しい音色、うっとり…。
 しなやかでありながら、ヴェルディに欠かせない重厚感も備わっていて、合唱と重なった時の迫力たるや!その底力に度肝を抜かれ、日本からのお上りさん(私)は口があんぐり状態。フィナーレは鳥肌が立ってしまった。
 終演後の客席は大盛り上がり、隣席のイタリア・マダムは「Bravi!」の連呼(当然)。ムーティは何度もステージに呼び出されてご挨拶。会場で偶然一緒になった日本人の観客の方が「イタリアの方ってこんなに盛り上がるんですね、凄いですね」と言っておられたが、私もこんなに盛り上がった演奏会は久々である。

 ★この公演の直前(11日)に、マエストロ・ムーティへの高松宮殿下記念世界文化賞贈呈が発表された。このタイミングで聴けたことに感謝。音楽を通じてイタリアと日本を繋ぐ架け橋となっていただけるのは、ありがたいこと。

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 昨夜のフィレンツェでの《マクベス》の余韻も冷めやらぬうちに、今夜はナポリで《リゴレット》とヴェルディ祭のごときオペラ鑑賞旅である。ヴェルディをあまり聴かない私でも《リゴレット》は大好きなオペラ、実際の舞台は初めて(生で聴いた機会が思い出せないので)。映像やCDでは、そのどれにも感動を覚えた記憶がある。
 《リゴレット》はヴェルディのリアリスティックな視点が冴えた、非常にモダンな作品だと思う。時代的な古さを全く感じさせないのが凄い。
 登場するヒロインも、同世代のワーグナーが描き出したような「愛」(理想)の看板を背負い、超人的に純粋無垢&清廉潔白のまま死んではいかない。《リゴレット》のジルダは世間知らずの初心な娘だが、恋した相手に遊ばれた挙句、殺害されてしまうのである。ジルダは自ら殺されることを望むのだが、他者(愛する男)のためというよりは、自らを救うためーそのように死ぬことでしか自分というものを保てなかったのではないかと思ってしまう。なんという残酷さ!世界は残酷であるという現実を、ヴェルディはよく分かっている。
 そして、道化のリゴレットが醜く厭らしくあればあるほど、次第に道化の立場が逆転していく落差ゆえの哀れさによって、涙腺が緩んでしまうのである。
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 それを物語る音楽は、全てが聴きどころ。ともかく「歌(人間の声)」が全面に立ち上ってくるのには、まぎれもなくイタリア・オペラの、ベルカントの伝統を感じる。やっぱり、ヴェルディはベルカントなんだと。
 演出は《トスカ》と同様こちらもマリオ・ポンティッジャ。全体的にオーソドックスなもので、宮廷シーンからリゴレットの家、そしてスパラフチーレの自宅の場面まで、雰囲気をよく作り上げていた。1幕では舞台に甲冑を着けた戦士と馬の像をいくつか配し、両サイドにこの悲劇を象徴するような彫刻(を模した絵、宮廷の装飾にも見える)を掲げ重厚感を出していたと思う。
 そしてつくづく感心したのが衣装、ジュジィ・ジュスティーノにBrava!衣装は本当に大事なポイントで、衣装がまともでないと、とたんに舞台が「偽物=安っぽく」なってしまうのだ。予算は限られているだろうが、ここにはしっかりと気を配っていることが伝わってきた。特に合唱団が身に着けていた「赤」の衣装の美しさに溜息。一口に赤といっても、それぞれの色合いが微妙に異なっており、そのグラデーションが効いていた。それはヴェネツィアで観たカルパッチョの赤―同じ赤とはいっても、光線の当たり具合で微妙に色合いを変化させ、様々な表情を見せる赤―が思い出された。イタリアの「赤」は奥深い…。
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 指揮はピエール・ジョルジョ・モランディ、2014年シーズンの新国立劇場《マノン・レスコー》の演奏は良かった記憶があり、今回も端正にまとめた音楽で満足のいくものだった。初日なので、多少硬さがあったかも。
 歌い手さんたちは高水準でバランスが良い。ただ、リゴレットは難しい役どころ。ジョルジュ・ペテアンのリゴレットはどうも立派すぎて…。歌唱も含め、若々しく恰幅のいいタイトルロール。
 マンドヴァ公は今年3月に日本でも(新国立劇場《愛の妙薬》のネモリーノ)歌っていたサイミール・ピルグ。…日本では聴かず、ナポリで聴くことになろうとは、いや、世界は狭い…。歌唱は軽妙で、若々しく、好色なマントヴァ公にはぴったり。
 素晴らしかったのは、ジルダ。日本でもお馴染みのパトリツィア・チョーフィ。初々しい娘というよりも、ベテランの風格だが、ほっそりとした可憐な容姿は変わらず、歌唱はさすがの素晴らしさ!ジルダは十八番なのではないだろうか、高音も鈴を転がすような美しさで、十分にコントロールされたベルカントの響きを満喫、素敵だった。
 スパラフチーレを歌ったジョージア出身のゲオルギー・アンドグラーゼも凄みがあって良かった。バス&バリトン好きにはたまりません、響く低音に痺れた…。
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 現代では映像機器やインターネットの恩恵で、家に居ながらにして、様々なオペラの舞台に接することができるが、やはり、劇場でのライブ感に勝るものはない。ヴェネツィアと同様に、オペラとの所縁深いこの地ナポリで、オペラを観ることができたことに、改めて感謝したい。

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 ちょうどこの日は東京の新国立劇場でも《トスカ》が上演されているはず、と思いながらサン・カルロ劇場へ。《トスカ》は歌劇場にとっては超スタンダードな演目で、私も映像や実演で何度も接しているが、さすが《トスカ》となると、もう好きとか嫌いとかいうレベルのものではなく、こうしたものが「オペラ」なんだと。それだけに様々な舞台と比較されやすく、観客の評価も辛くなりがちではないだろうか。
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 今回の舞台、マリオ・ポンティッジャによる演出は日本でもお目見えしているもので、しっかり(というかもちろん)「ローマ」が舞台となっている。今シーズン上演された新演出のNYメトロポリタンオペラ(マクヴィガ―演出)のような豪華絢爛さはないが、上手く雰囲気を作り出しているのには感心。お金をそれほどかけなくとも、工夫とアイデア次第でローマの教会を再現できるのだなぁ、と。今シーズンの英国ロイヤルオペラの《トスカ》(ケント演出)も観たが、ローマの広がりを感じさせない、地下のような狭苦しい装置で違和感が…。

 1幕は正面に描かれている天井のドームが教会内部の大きさを感じさせ、幕切れの大合唱も映える。カヴァラドッシが描いているマグダラのマリア、これも様々で面白いのだが、当然その時代の様式の絵なので、私的にはルネサンス以前風のマグダラのマリアだといいのに、といつも思ってしまう(…重要なことではないのだが)。イタリアで観る絵画のマグダラのマリアは、本当に美しくて、いつもうっとり見入ってしまうのだ。豊かな髪を波打たせてキリストの足元にひざまずいているイメージ。
 そして続く2幕、3幕とも見慣れた感のある演出=設定だが、《トスカ》はこれで正解である。余計なことをする必要はない。
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 私の席(平土間5列目中央)では音響が思ったよりデッドで、ちょっと物足りない感じ。上階の方が音が抜けて響くのかも。
 指揮はスロヴァキア出身で、この劇場の音楽監督でもあるユライ・ヴァルチュハ。劇の運びに音楽をしっかりと合わせてメリハリを効かせ、歌手に寄り添う流れは納得できるもの。オーケストラが変に浮くこともなく好印象。バランスの取れたごくスタンダードな演奏で、全体的にはあっさりとした感じにも受け取れた。
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 素晴らしかったのは、カヴァラドッシを歌ったアメリカ出身のブライアン・ジャッジ。周りもそう思う方が多かったようで、彼が最も「Bravo!」を浴びていた。豊かな声量と張りのある美声、そして情熱的な演技で、はまり役ではないだろうか。この方は、3月にコルンゴルト《へリア―ネの奇跡》の主要キャスト=異国の男を歌っており、私はこのオペラを聴きたくてベルリン行きを考えたのだけど、年度末は仕事があって、どうしても行けず涙を呑んだのだった。
 スカルピアはベテランのフロンターリ。さすがの貫禄だが、品格がありすぎというか、厭らしくないので悪人に見えない…。
 トスカはアイノア・アルテータ。トスカには申し分ない美しさなのだが、可憐な印象で、もっとドスが効いていてもいいかと。今回はスカルピアとトスカがあっさり系だったので、全体的な印象があっさり、ということになったのかも。観客の反応も、思ったより静かだった。
 やはり歌手の演技ーこちらにどれだけリアリティを感じさせるかが大きくものをいうオペラである。
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 劇場内は観光客(私もそうだが)も多いのだろう、というのは、第2幕「歌に生き、恋に生き」のアリアの途中で、なんと複数名の拍手が起こり、観客達が「なんてこった」という身振りで「シーッ」と諫めることがあったからだ。観光客が多いというのは、来る価値があるということなので、よいことではあると思うが。オペラは愛好者だけのものではない。
 さて、これで2日間のオペラ鑑賞は無事終了、ナポリの艶やかなサン・カルロ劇場とはお別れ。

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 ヴェルディ作曲《ルイザ・ミラー》の鑑賞へ。
 今年はなんだか、私にとってヴェルディの年になりそうな…というのも、ここ十数年あまりヴェルディを聴いてこなかったのだが、今年に入ってから日本ヴェルディ協会の講演会へ赴いたり、英国ロイヤルオペラのライブビューイング《リゴレット》に心揺さぶられたり、またこれからも観る予定があるというのも、私にとっては珍しいこと。

 この《ルイザ・ミラー》は初めて観る作品。初演がサン・カルロ劇場ということだけしか知らず、ヴェルディのどのあたりの時期に作られたのかもよく分からないまま映画館へ。
 聴いてみると、やっぱりヴェルディは私が聴いてきたオペラの中で、最もマッチョ。作家の島田雅彦さんはヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》を「全編にわたって男臭さムンムンのマッチョ・オペラ」と評していたが、この《ルイザ・ミラー》もその路線。ストーリーもそうだが、やはり音楽がマッチョなのである。幕間のインタビューで、《ルイザ・ミラー》はヴェルディが自分のスタイルを確立する以前のものというコメントがされていたが、いやいや、それでも同世代のワーグナーより断然「男臭い」。
 ストーリー自体は男女の恋愛が軸になっているが、父子の葛藤や対決が大きな要素となっているのがポイントで、この作品は読み替え演出にも向いているのではないだろうか。例えばマフィア同士の抗争(日本でいえば任侠映画の世界)に置き換えてもぴったり嵌まるような気がする。

 演奏では、B・ド・ビリーの指揮がとても良かった!俊敏で、これぐらい筋肉質で引き締まった演奏でないと、ヴェルディのカッコいいマッチョさが引き出されてこないのではないかなと。序曲から惚れ惚れしてしまった。ここだけでも、もう一度聴きたい。